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CERVATOS  作者: 春戸 稲郎
七月
54/66

〈今〉を、〈ここ〉を、


 ひとり残された染谷は、マリベルに言いつけられたとおりに旧校舎の二階に上がった。

 すると、明かりのついた教室から廊下を伺っていたそらなと目が合った。

「染谷先生。姫様はどうされました?」

 小走りで染谷に近付いてきたそらなの後ろで、廊下側の窓から多くの児童が顔を出して染谷を見ていた。「明かりを消して」というマリベルの指示の裏を染谷は知った。

「刑事さんに連れられて出て行ったよ。そこの教室に全員いるのかい?」

「はい。今後の対応を協議していました。……そうですか。姫様は警察に……」

「マリベルのことは心配しなくてもいい。問題はきみたちだ」

 染谷はそらなと一緒に教室の中に入った。ひとつの教室に、五十人前後の児童たちがすし詰めの状態で床に腰を下ろしていた。

 元々ざわついていた教室が、染谷が入ってきたことで更に騒がしくなった。

「先生! 姫はどうなったんだ!」

「まさか逮捕されちゃったの?」

 口々に飛んでくる質問に、教壇に立ったそらなが「静かに!」と声を張る。

「賭博開帳図利罪での逮捕なら現行犯が基本です。また、外交官のご令嬢である姫様がペルソナ・ノン・グラータとして国外退去が求められたのなら、警察が出てくる理由がありません。『今回の件は非公式の事情聴取だろう』と姫様はおっしゃっていました」

「じゃあ、姫様は戻ってくるのね?」

 教室の一角から飛んできた問いに、おそらく、とそらなが頷くと、児童たちに安堵の空気が広がった。

 問題はこれからだ、と染谷が思っていると、「問題はこれからです」とそらなが言った。

「本日の営業ですが、当座わたしが指揮を()ります。なので……」

「ちょっ、ちょっと待って!」

 予想に反した方向に協議が進みそうになるのを、思わず染谷は止めた。

 子供たちに見つめられる中、染谷のほうが驚きの顔をしていた。

「きみたち……警察が来ても、まだ〈セルバトス〉の営業を続けられると思っているのか?」

 子供たちが何の疑問もなく開店させようとしたことが衝撃だった。

「警察が来たんだよ? いくらなんでも〈詰み〉だろう。どうしてまだ危険を冒そうとするんだ。今ならまだ、何の罰も受けずに終わらせられるかもしれないのに」

 責任者であるマリベルは刑事によってどこかに連れ去られている。状況は〈詰み〉どころかもう一歩先に進んでいるとすら考えられた。

「これで終わりだ。終わりにしよう。きみたちは今までよくやってきたし、もう十分だろう。残った仕事はきれいに〈後片付け〉するだけだ。違うのかい?」

 教室を見渡して説得する染谷は、「違いますね」と、隣に立つそらなに打ち返された。

「姫様はわたしに『しばらく任せる』とおっしゃいました。『店を畳め』とは言われておりません。なので通常どおりに営業いたします」

「店を畳むという判断も含めてマリベルはきみに任せているんだろう? よく考えなさい。百歩譲って、警察が来た今日くらいはお客さんを帰したっていいだろう。マリベルがいない隙を狙って警察が踏み込んでくるかもしれないぞ」

「もしも警察がこのカジノを摘発するつもりなら、今回のような、わたしたちに警戒させるような真似はしないはずです。警察官はそういう〈博打〉はしません。確実に現場を押さえるつもりでやってきます。また先ほども言ったように、姫様個人が、外交特権を受けるに相応しくない人物として国外退去を求められたのなら、そのときは証拠さえ揃える必要がありません。……今夜ここに警察は来ませんし、姫様は無事に戻ってきます。ならばいつもどおり、わたしたちは営業します」

 この子もまた小学生離れしているなと、染谷は舌を巻く思いだった。

「……ずいぶん難しいことを、たくさん知っているんだね、そらなさん……」

 しかし今夜ばかりは、染谷もここで引き下がるわけにはいかなかった。

「理屈の問題じゃないんだ。たとえ何も問題なく今日の営業を終えられたとしても、警察が来たという事実は変わらない。……僕の想像だけど、これは警察による警告で、黄色信号だ。ここで停まらなくても事故は起きないかもしれない。だけど安全に停止できるのにわざわざ危険を(おか)す理由はないはずだ。今週は無事でも来週はわからないだろう?」

 染谷は教室に集まる〈セルバトス〉のメンバーの顔を見渡した。

「先生からのお願いだ。どうかもうこれ以上、危ない橋を渡らないでくれ。……本当に、きみたちの将来が心配なんだよ」

 児童たちは染谷の懇願に、沈黙した。

 彼らを代表して答えたのは、やはりそらなだった。

「染谷先生のお気持ちは、わかります。わかっているつもりです。しかし、どうかわたしたちの気持ちも、わかってくれませんか?」

 そらなの顔は、真剣で、どこか悲しげだった。

「姫様……マリベルは、わたしたちの友達です。そしてこの学園を卒業すれば恐らくもう二度と、彼女に会うことはできません。エスコバル家に自由はないとマリベルは言っていました。(へだ)てる実際の距離以上に、わたしたちとは暮らす世界が離れています。……時間は有限です。形はどうあれ、いずれマリベルと別れる日が来ます」

 実際に会うことはできなくとも友情は続く、と言ってやるのは簡単だったが、今生の別れともなると容易に否定できなかった。

「マリベルが立ち上げ、わたしたちで築き上げた〈セルバトス〉での思い出は、ほかのありふれた学校行事で作るそれよりも、はるかに特別で、大切な意味を持つのです」

「〈セルバトス〉が原因で彼女の帰国が早まったら本末転倒じゃないか」

「先生とわたしたちの見解は少々異なっています。第三者の介入によって、『マリベル・エスコバルという恐るべき少女がいたこと』を、わたしたちの手でなかったことにするくらいなら、いっそ彼女がいた証拠を、この国の犯罪史に刻み付けたいのです」

「……わからない。……わからないよ。僕にはデメリットやリスクのほうが大きすぎるようにしか思えない」

 染谷の呟きに、そらなは「そうでしょうね」と頷く。

「先生にとってわたしたちの健やかさと将来が大切なのと同じように……わたしたちにとっては、この場で作るマリベルとの思い出が、大切なのです」

 さぁ、とそらなは、教室に集まる児童たちに声をかける。

「もう時間がありません。急いで準備に取り掛かりましょう」

 号令に、児童たちはそれぞれ動き出す。彼らは自分たちが何をすべきかをわかっていて、細かな命令を必要としなかった。

 持ち場に散っていく児童たちを見つめていた染谷は、ぎゅっと、拳を握り締めた。

 ここで自分が、児童ひとりひとりに平手打ちでも浴びせて、文字どおりに力尽くで開業を阻止するというのも手段のひとつだった。刑事の言ったように、子供が犯罪に手を染めているのならば、どんな手を使ってでも止めるべきなのかもしれない。

 しかし、とうとう染谷は何もしなかった。迷った末に手を振り上げることはしなかった。

 人から言われて変えてしまうような信念は、最初から持つべきではない。そして体罰を行使したことで子供たちから恐れられ、心を閉ざされてしまうくらいなら、〈甘い先生〉でいたほうが上等のように思えた。

 何より「大義名分があれば立場の弱い者に暴力を振るってもいい」と、子供たちが誤った解釈をしてしまうことを避けたかった。行き過ぎた体罰で児童や生徒を深く傷つけてしまう〈事件〉がときどきニュースで聞こえてくるが、それを犯した教師は、きっと学生時代に同じような体罰を受けたのだろう。体罰は一時的な問題だけではなく、連鎖する危険性もあるのだ。

 それこそ刑事が言ったように「理屈をこねている」だけかもしれない。理論と理想が現場ですべて通用するわけがないということは、染谷にも教師生活を通して徐々にわかってきていた。

 だが―――自分はこれで行く。染谷はそう決めた。

「……そらなさん。ひとつだけいいかな?」

 教室を出て行こうとするそらなを、染谷は静かに呼び止めた。

「僕は……僕は、ここにいるからね? 邪魔をするかもしれないし邪魔になるかもしれないけれど、どこにも行かない。きみたちの〈セルバトス〉がどんな終わり方になったとしても、そこに必ず僕も立ち会う。……僕はきみたちの先生だから」

 マリベルの起こしたカジノクラブ〈セルバトス〉に関わる子供たちは、早熟といっていいほどに大人びている。物の考え方、視点の高さが並の小学生よりも一段上だ。

 だが―――だからこそ、見守る大人が必要だ。彼らが安心して力を発揮するためには。

「……いつでも僕が見ている。僕が〈セルバトス〉の証人のひとりになる。……だから、応援はしないけれど、思うようにやってみなさい」

 ふとすると染谷自身にも、自分がどちら側に立っているのかがわからなくなりそうで、その発言についても言った後で意味を考えてしまいそうだった。

 しかしそらなは、穏やかに笑って頷いていた。

「ありがとう、染谷先生。……邪魔だなんてことない。だって先生は、〈セルバトス〉という名の〈学級〉の、最初で最後の〈先生〉なんだから」

 そう言われて、染谷は何故か、このとき深く、自分が教師であることを自覚したのだった。

 やがて少々客を待たせることになったが、カジノクラブ〈セルバトス〉は、支配人不在のまま、客を迎え入れた。

 発注ミスによってカードが足りないせいでぎりぎりの進行を強いられ、また別の新たなトラブルの火種さえ生まれてしまったが、警察に踏み込まれることもなく、なんとかその晩を乗り切ることができた。


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