善良な男
―――染谷は、何かの冗談だと思いたかった。
「おはようございます、佐久間会長。お体の具合はいかがですか?……お久しぶりです、叶先生。本日はごゆっくりお楽しみください。……おはようございます、中村先生。お連れ様はご紹介ですか? ありがとうございます。当カジノは会員制ですので、あちらでお名前を……」
午後八時を前後して、旧校舎の校庭に、タクシーや自家用車が何台も乗りつけて、そこからわらわらと、老いも若きも男も女も、種々(しゅじゅ)雑多な大人たちが正面玄関に入ってきた。
旧校舎のそこかしこに散っていく前に、〈客〉のひとりひとりに丁寧に挨拶をして歓迎するマリベルの隣に立っていた染谷は、何かの冗談だと、まだ信じていたかった。
「お見限りかと思って寂しかったですよ、国吉選手。キャンプはいかがでした?……おはようございます。久保田先生の占いのお陰でご覧のとおりに繁盛しております。……月山先生! 先月の舞台、拝見しました! とても素晴らしかったです!」
たとえ、プロ野球チームの四番バッターが来ても、テレビでよく見る占い師が来ても、有名な舞台演出家が来ても、染谷は信じなかった。信じたくなかった。
しかし―――入場する〈客〉がある程度落ち着き、見回りと染谷の案内を兼ねてマリベルと覗いた教室の中で、客が札束をゲームチップに両替しているところを目撃したところで、これが現実だと、あるいは悪夢だと、染谷は悟った。
「……マリベルさん。ちょっとこっちに来なさい」
「はい」
意外にも従順に、マリベルは染谷の指示に従って教室を出た。
染谷にはルールのわからないゲームに興じている喧騒から離れ、暗い廊下のどん詰まりまでマリベルを導いた。
そうして、深い深呼吸と共に、染谷は質問した。
「……もう一度、確認します。……ここは何なんですか? ここではいったい、何が行われているのですか?」
染谷からの、丁寧語による圧のある質問に対し、マリベルはけろりと答える。
「ここはカジノです。わたしたちは賭場を提供し、お客様に遊んでいただいています」
少女の平然とした態度に、染谷は怒る気が完全に失せた。
「……いつからですか? いつからこんな、とんでもないことを始めたんですか?」
「二年前の夏からですね」
「にっ……責任者は誰です? どこの悪い大人の指示に従っているんですか?」
「誰と聞かれれば、運営責任者は私です」
「そんなはずないでしょう。あなたのお父さんですか? それとも理事長先生?」
「働いているのはすべて学園の児童です。四月三日生まれの私よりも一日でも年長の人間は、誰ひとりとして運営に当たっておりません」
すらすらと答えるマリベルに、染谷は口をつぐむ。
信じたくはなかったが、確かにそうだ。設営に細やかな指示を出し、客を丁重にもてなす態度は、いっそ支配人として相応しい姿だった。
暗がりの中で、染谷は少女の両肩に手を置いた。
「それなら、きみに言います。……今すぐ客を帰して、この馬鹿げた夜会をやめなさい」
染谷はまっすぐに、目の前にいる少女の琥珀色の瞳を見つめた。
対してマリベルも、懸命に言い含めようとする教師の瞳を、黙って見つめ返していた。
外国からやってきたこの少女は、今、頭の中で日本語からスペイン語に翻訳しているのだろうかと、染谷は沈黙の理由を探る。しかしこれだけ流暢に異国語を操り、これほどの規模の大きな賭場を開帳させた聡い少女だ。沈黙は別の理由で使われているはずだった。
ふぅ、と息をついて、マリベルは目を伏せる。
「染谷先生のお気持ちは察します。きっとわたしとほかの子たちを思ってのことでしょう」
「そうです」
「染谷先生がお止めになるのは、ここで行われているのが〈賭博〉という犯罪行為だから」
「そうです」
「そんなものを小学生児童が営むのは、大変に危険だから」
「……そうです」
そこまでわかっていながら……と、染谷は唇を噛んだ。
少女の返答を、問う前から予測できていた自分に気付く。
これほどの〈悪事〉を計画的にやったのだ。
ひとりの大人の忠告に、よもや今さら従うはずもない。
「染谷先生のお気持ちは察しますが、当座、このカジノの看板を下ろす予定はありません」
染谷はうなだれて、ぎゅっと目を閉じ、現状を憂うように首を振る。
「……理事長先生は、どこまで知っているんだい?」
「すべてをご存知です」
「ここで何が行われているのかも?」
「ええ。口止めに毎週百万円払っています。もうそろそろ〈お客様〉としてお見えになるはずです。そうして口止め料以上に遊んでいただいております」
染谷は顔いっぱいに渋面を広げ、胸焼けを伴う吐き気を堪えた。とても自分と同じ教育者と思えない。金に釣られて児童の犯罪を見逃すなど、法律的にも道徳的にも許されない行為だ。
いっそのこと勝手に警察に通報しようかと、染谷は本気で考えた。
うなだれる染谷を前にして、自分の肩に置かれる手に、マリベルは手を重ねた。
「染谷先生。ご忠告はとても嬉しいのですけど、ご自身のためにも、しばらくは、わたしたちを見守っていただけませんか?」
「……どういうことだい?」
「染谷先生が警察に通報なさって、このカジノの存在が明るみに出た場合、理事長先生は毎週の〈臨時収入〉がなくなります。そうでなくとも学園の経営には致命的な痛手となります。そうなれば、その〈損害〉を与えたのは染谷先生だと、きっと理事長先生はお考えになられます」
「……わたしが、この学園を解雇されると?」
「その可能性は十分にあるかと」
染谷は目の前の少女の賢さに感心していた。
悔しさを噛み締めながら。
「そんなことは、どうだっていいんだ……! きみが気にすることじゃないんだ……!」
そこまで気を回せる賢さを悪事に用いることが、悔しくて悲しかった。
染谷はマリベルの肩から手を離し、前髪をかき上げるようにして頭を抱えた。
「マリベル……わたしは……いや僕は、僕なりの夢と理想を持ってこの学園に来た。何かを教えて導こうなんて尊大なことは考えていない。だけど、人がどのように生きるべきかを、子供たちと一緒に学んでいけると思っていた。それなのに……それなのに、秘密を教えると言われて連れてこられたのが、子供たちで営まれる非合法なカジノだなんて……これは悪夢だよ。……教えてくれ。僕はこれから、夜中に客を呼んで賭博の手引きをする子供たちを相手に、何を教えて何を学べばいいんだ……!」
思いの丈を静かな絶叫に乗せる染谷に、マリベルは黙っていた。
「……きみの頭の良さは素晴らしい。……けれど、なぜだ? きみは金に困っているわけではないだろう? 何が目的で、こんなこと……」
染谷は自分でも何を言っているのかがわからなくなっていた。子供に向けるべきではない態度を取っていることが恥ずかしくもある。しかし文脈にならずとも、何かを言いたくて仕方がなかった。言わずにはいられなかった。
先生、とマリベルが声をかけた。
「先生のお気持ちは、痛いほど伝わりました。……六年一組のクラスメートのほとんどが、このカジノの運営に関わっています。わたしたちの担任の先生には知ってほしいと思ってここにお招きしたのですが……染谷先生は、秘密を守れるということ以上に、善良だったんですね」
ですが、ときっぱりとした口調に変えて、マリベルは姿勢を正した。
「わたしもわたしなりの理念を持って、この賭場を開帳しております。責任もあります。気は進まないでしょうが、愚かなわたしを、もう少しだけ見守っていてくださいませんか?」
少女の決然とした声音の申し出を聞いて、本当にこの子は十二歳なのかと染谷は思った。
「本当に……本当に、気が進まないよ」
「申し訳ありません。ところで染谷先生」
「……なにかな?」
「場所を変えませんか? 運営責任者であるわたしが、いつまでも廊下の隅っこにいるわけにはいきません。それに……あまりにわたしの姿が見えないと、適当な棒切れを拾って、護衛の三郎がそこの暗がりからやってくるかもしれません」
想像すると、笑えないほどに恐ろしい冗談だった。
「それは嫌だな。……じゃあ、きみがいるべき場所とは?」
「とりあえずは……〈職員室〉ですね」
聞きなれているはずの単語だったが、きっと自分の想像している〈職員室〉ではないのだろうなと、染谷は暗澹とした気持ちになった。