承認と昇進
夜が明けて、設営・清掃班が旧校舎にやってきた。校舎の清掃が始まる。
「そらな。さすがにもう寝ろよ。昼になったらまたミーティングなんだし」
「そうね。もうお客様も全員……あれ? 車が一台まだ残ってる」
「ほんとだ。ありゃ誰のだ?」
校庭の隅に停められた一台の乗用車にふたりが注目していると、やぁやぁと声をかけられた。
最後の客が、まだひとりだけ残っていた。
ひとりの中年の男で、今晩の来店時に「楽しみ半減って感じ」と漏らした人物だった。
「立花先生……どうされたんですか? こんな時間まで」
「ちょっとそらなちゃんに、野暮用があってね」
「わたしに?」
「そう、きみに。……ちょっとした質問に答えてほしいんだ。もしも今晩、ここで急病人が出た場合、きみはどうしていた?」
「……立花先生に頼っていたと思います。先生は内科医でいらっしゃいますから」
「それじゃあ、倒れた客がわたしで、ほかに医者がいないのに緊急な判断が必要な場合は?」
「救急車を呼んでいましたね」
即答したそらなに、ほう、と立花は口をすぼめる。
「ここに救急車を? そうなると、警察も後々来ることになるんじゃないかい?」
「もちろん別の車で病院へ搬送することも考えますが、動かすのも危険な場合は救急車を呼びます。〈セルバトス〉の営業をやめることになりますが、お客様の命には代えられませんから」
「うむ! なるほど!」
「……質問は、以上ですか?」
「ああ、質問はこれで終わりだ」
立花は懐から名刺を取り出すと、そらなに渡した。
「私の連絡先だ。急病人が出た際にはわたしがすぐに駆けつけるよ」
「……はい。ご丁寧にありがとうございます」
得心がいかなさそうに首を傾げるそらなに、立花は言う。
「わたしはマリベル姫から特命を受けていてね。本当は今日の営業時間中、頃合を見計らって嘘の卒倒をするつもりだったんだ。家庭科室のごたごたのせいで流れてしまったが……」
立花の打ち明け話に、そらなは目をぱちぱちとさせた。
「あの、どういう、ことです? 卒倒する振り?」
「マリベル姫からのテストだ。『ソラナは〈セルバトス〉を閉めることを決められるか』というね。……おめでとう。金よりも人の命に重きを置いたきみは、姫君の眼鏡にかなったんだ」
そらなが未だに状況を掴めずにいると、はははと立花は笑う。
「マリベル姫から聞いたんだが、もしもきみが〈セルバトス〉の運営を任せるに値する人材だったなら、きたる姫君最後の夏休みには、営業日を大幅に拡大するとのことだ」
「……それは……つまり……」
「運営において、きみはマリベル姫と同等の権限を手に入れた、ということだ」
そうしてまた、立花は、おめでとうと言って、そらなの手を握った。
「あ……ありがとう、ございます……」
「現実味が湧かない?」
「え、ええ。……正直、嬉しいよりも、怖いです。今日みたいなトラブルに、また〈セルバトス〉が巻き込まれるんじゃないかと思うと……」
俯けていた視線を、そらなは、きゅっと引き上げた。
彼女の黒い瞳には、確かな力が宿っていた。
「ですが、やっと、わくわくしてきました。……自分の力でどこまでやれるか、試してみたくなりました……!」
「その意気だよ。しっかり励みなさい」
立花からの激励に、はい、とそらなは力強く頷いた。
去り際に、立花はこう言い残した。
「マリベル姫からきみに、『そのスーツはあなたにあげる』と、伝言があったんだった」
確かに伝えたよ、と言って、ようやく最後の客が帰っていった。
その伝言はすなわち、マリベルとそらなが、セルバトスにおいては対等に近い立場になることを示唆するものだった。
―――それなのに、
「……せっかくもらったのに、もう汚しちゃった。すぐにクリーニングに出さないと」
「返り血で服汚す小学生なんてお前だけだろうな」
「そうかもね……っと」
怜雄の隣で、ふぅ、と息を吐いたそらなは、その場でしゃがみこんだ。
「なんだか……今晩は、いつもより、疲れちゃった」
「長い夜だったな。……っていうか、姫は裏で糸を引くのがほんとに好きなんだな。ぜんぜんここにいない気がしねぇよ。どっかに隠れてるんじゃないか?」
「わたしも同じ気持ちよ。……でも、だから、心強い」
朝の清い空気が流れ込む山の中で、そうだな、と怜雄は笑って頷いた。
「とりあえず帰ろう。眠たくて仕方ねぇよ」
「そうね。そうしましょう」
「昔みたいに手ぇ繋ぐか?」
「ばか。いつの話よ」
ふたりは肩を並べて、旧校舎をあとにした。
「ところで、そのプロレスのチケット、結局どうすんだ?」
「染谷先生に今晩のお礼として押し付けることにする。稲さんと行かせようよ」
「ナイス。その悪巧みなら姫も乗るよ。一緒に染谷先生をからかおう」
「楽しみね」
「ああ。……ところで、〈お礼〉ってなんのことだ?」
問いかけにそらなは、秘密よ、と朗らかに笑った。




