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CERVATOS  作者: 春戸 稲郎
六月
45/66

そらなの弱音


 そらながふらふらと校長室に入ってきたことで、染谷は思わずソファから立ち上がった。

「そらなさん? どうしたの?」

「ああ……そういえば校長室は、染谷先生が、使っていたんでしたっけ……」

「……そらなさん、少し横になって」

 見るからにくたびれ果てている児童に、染谷は場所を譲った。言われるがままにそらなはソファにかけると、こてんと座面に体を投げ出した。

 ソファの中に沈み込んでしまいそうなそらなに、染谷は何をすべきかを考えた。

「そらなさん。僕はここにいるからね?」

 休息の邪魔をするつもりはない。しかし彼女をひとりにするわけにはいかなかった。

 ソファの上で仰向けになったそらなは、顔を見られることを(いと)うように腕で目元を隠した。

「……お願いします。……そこにいてください。……聞いてください」

「聞くよ。何でも。何でも言ってごらん」

 言葉さえ通じれば女同士なのだから稲とふたりきりにさせてもいいかもしれないが、染谷は教師でそらなは受け持ちの児童だった。彼女の話を聞く責任があるのは稲ではない。

「わたし……わたしじゃ、無理だったのかな……」

 ゆるゆると吐き出される弱音に、染谷は肯定も否定もしなかった。

「もっと……うまくやれると思ってた。……姫様には敵わなくても、頑張れば、問題なくできると思ってた……」

 そらなのそばで床に膝をつき、染谷は傾聴する。

「……でも、ダメだった。姫様がいなかったら、お客さんは半分になっちゃったし、マナーを注意しても全然届かないし、わがままに振り回されるし、サービスのチップで大勝ちさせて赤字になりそうだし、……メンバーにはがっかりされるし……ぜんぜんダメ……」

 そらなの言葉に耳を傾ける中で、どうすれば彼女に寄り添えるかを必死で模索した。

「……こんなことなら、最初から、引き受けなければ良かった……」

 表情も声音も沈んでいる少女に、どういう言葉をかけるべきかを、染谷は頭の中で順序だてる。そういう打算をしてから慰めようとすることに引け目も感じるが、一緒に落ち込んだところで解決にはならないのだ。

「そらなさん。百点満点を目指すことは、とても素晴らしい心がけだ。だけど百点満点じゃなければダメだなんてことは絶対にない。九十点でも八十点でも……たとえ一問しか正解できなくても、それがほかの誰にも解けない問題だったなら、それは素晴らしいことなんだ」

 そらなの理想が高すぎる―――理想が幻想になっていると染谷は感じていた。

「普段の……〈セルバトス〉でのきみを見ていればわかる。きみはよくやっている。頑張っているだけでなく、きちんと仕事を遂行できている。大人でもきみほど仕事のできる人はなかなかいないだろう。きみにとって難しい問題があったのなら、それは誰にでも難しい問題だ」

 そらなはそこで、目元を隠していた自分の腕をどけて、染谷の顔を見た。

「でも、きっと……姫様ならうまくやる」

「……そうかもしれない。あの子は僕の目から見ても小学生離れしている。……でも、マリベルだって完璧じゃない。完璧な人間なんてどこにもいない。きみにできないことはマリベルならできるかもしれない。だけど、その逆だって十分あり得る」

 補い合うことだよ、と染谷は、握手をするように自分の両手を組む。

「完璧な人間はいない。マリベルにできないことをきみがする。きみにできないことはほかの誰かに頼めばいい。人の営みというのは、協力なくしては成り立たないんだ」

 染谷の励ましに、しかしそらなは「無理だよ」と力なく呟く。

「先生の言ってることはわかるけど、姫様が抜けた穴は、わたしじゃ埋められなかった。……姫様はわたしに期待してくれたのに……」

 挫折の沼に肩まで浸かっているそらな。

 彼女にかける言葉を、染谷は頭の中をかき回して探す。

「ギャンブルには賛成できない僕だけど……賭けてもいい。マリベルはきみに、『絶対に失敗するな』とは言っていないはずだ」

「……それは……そうだけど……」

「完璧な人間もいなければ、失敗しない人間もいない。マリベルだってそうだし、彼女もそれをわかっている。……問題は、失敗して立ち止まるか、学びに変えて前に進むかだ」

 そこで染谷は腕時計に目を落とす。

「まだ開店して三時間も経っていない。きみがまた失敗することもあるかもしれないが、失敗を働きで穴埋めする時間も十分にある。……少し休んだら、挽回を目指してみない?」

「……どうすれば、挽回できるかな。そんなチャンスがあるのかな」

 そらなはむくりとソファから起き上がった。染谷は顎に手を当てる。

「派手な活躍だけが失敗を帳消しにするわけじゃない。……本当に大事な仕事は、ものすごく地味なことなんだよ」

 自分の見せ場ばかりを考えたり、好きなことだけに意を奪われたりする人間は、どの分野でも〈職業人(プロ)〉とは言えない。

「『手柄は部下に、責任は自分が』というスタンスを取るマリベルは、その逆が多いこの世の中で奇跡のように優秀なボスだ。彼女の力になりたいと思うのなら、まずは彼女のことを忘れて、目の前の課題にひとつひとつ取り組んでいくことだ。そしてきみがマリベルのようなボスになりたいのなら、誰かに頼ったり頭を下げることも覚えなくてはならない。わかるかな?」

「……わかる気がする……」

 ようやく顔を上げたそらなの目には、少しだけ活力が戻っていた。

「だって……姫様はわたしに、たくさんたくさん、頼ってくれましたから」

「そう。マリベルがきみを信用したからだ。きみが誠実に取り組んでくれると判断してね」

「わたし、思い上がっていました。『自分ひとりでできるから自分ですべきだ』って」

「きみは文句なく優秀だよ。自信を持っていい。ただし、自分ひとりで百点満点を目指さなくていいんだ。みんなで力を合わせれば二百点にも三百点にもなる。それがチームワークだ」

 そこまで言ってから、ふと我に返った染谷は、心の中で苦笑いしていた。これで「カジノ営業に反対している」と、どの口が言うのかと。

 しかし誰に言うわけでもない弁明の機会を与えれば、そらなは賭博をしているわけではなく、仕事としてカジノ運営に取り組み、それに関して悩んでいた、と染谷の口は語るだろう。

 そらなはソファから立ち上がり、マリベルから借りたパンツスーツの乱れを整えた。

「染谷先生、わたしは仕事に戻ります」

「もう? まだ休んだほうが……」

「十分です。元気が出ました。……わたしの話を聞いてくれて、感謝します」

「きみならいずれ立ち直れた。僕は何もしていないよ」

 小学生時代の自分がここにいる児童たちと同じ働きができるだろうかと、考える日もある。染谷はその度に、マリベルはもちろん、そらなにも敵わないだろうなと思い至る。

「愚痴でも何でも、話したいときはいつでもおいで。僕はきみの先生なんだから」

「頼りにしています」

 それでは、とそらなは頭を下げた。

 そのときだった。

 ノックもせずに、校長室の扉が大きな音を立てて開かれた。

 息を(あえ)がせてやってきたのは、エプロンを付けた理沙だった。

「か……家庭科室! 室戸さんと酔っ払いがトラブル! 乱闘寸前!」

 必要最低限、それでいて重大な緊急事態の報せに、そらなは無言で校長室を飛び出した。


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