開帳
夕方に職員寮に戻り、雑用を済ませて私服に着替えた染谷が寮の外で待っていると、一目でマリベルの使いだとわかる黒塗りの車がやってきた。
青いナンバープレートの高級車の運転席には、スーツを着た白人の男が乗っていた。
「ドウゾ、ソメヤサン」
「ど、どうも」
片言の日本語で後部座席を勧められた染谷は、ぺこぺこと頭を下げて車に乗り込んだ。
今までもこれからも縁のないほどの高級車で、しかし染谷は緊張していてシートの快適さも味わえなかった。車は暗くなった山道を走る。夜であることもそうだが、後部座席の窓がすべて黒かったために外の様子がわからない。数分で車は校庭に停まった。そもそも旧校舎までは歩いてもそれほど時間のかかる場所ではない。
オツカレサマデス、と片言の労いを受け、どうにか笑顔でありがとうと返事のできた染谷は、車の外に降り立った。
夜の山中に佇む旧校舎。その建物のほとんどの窓から明かりが漏れていることに、染谷は気付いた。
「……なんだ?」
本来ならば無人であるはずの旧校舎の窓の向こうでは、子供らしき人影が動いている。
これはどうしたことかと、染谷は旧校舎の正面玄関に向けて歩きはじめた。
そうしてマリベルとの約束を思い返す。
わたしたちの秘密。
染谷にはまだ〈わたしたち〉がどれほどの人数を指し、〈秘密〉がどんなものかが皆目見当がつかなかった。
土間に上がり、古びた靴箱の並ぶ正面玄関に立つと―――
「あら」
目の前に、マリベル・エスコバルが立っていた。
数人の児童に囲まれているマリベルは、オーダーメードで仕立てさせたであろう、小さな、それでいて華やかさのあるパンツスーツを身に付けていた。
昨日見た制服姿とも昼間に見た私服姿とも違うマリベルの正装に染谷が目を丸くしていると、褐色の肌の少女は、彼の前で恭しく頭を下げた。
「お出迎えするはずでしたのに、申し訳ありません。染谷先生」
賓客を迎えるかのようにマリベルは丁寧な言葉を使う。未だに状況を掴めずにいる染谷は、えーっと、と呟きながら、一言目を頭の中に探していた。
「……これが、〈わたしたちの秘密〉、なのかい?」
学校にいる間は児童に対しても丁寧語で接しようと決めていた染谷だが、そのときは忘れてしまっていた。
顔を上げたマリベルは、「その一部分です」と、にこりと上品な笑みを浮かべた
「……いったい、ここで何をしているんだ? 大人の許可は取っているのかい?」
「旧校舎の使用に関しては、理事長先生から許可をいただいております」
染谷は脳裏に、前日に自分に散々酒を飲ませた太鼓腹の禿頭を思い出した。
「ここで何をしているかについては、ご案内しながら説明いたします」
昼間とは違って丁寧な敬語を使うマリベルは、周囲にいた数人の児童に視線を配った。
「ほかに質問は? なければ持ち場に戻って。わたしはこれから染谷先生をご案内するから」
マリベルからの号令に、少年少女たちが、はい、と頷いて、早足で散っていった。指示を受けた児童たちは機敏で、マリベルは何らかの責任を伴っているらしいと染谷は察した。
「校舎内ではスリッパを」
「あ、ああ、うん」
染谷は言われるがままに靴を脱いでスリッパを履き、言われるがままにマリベルのあとに従う。颯爽と歩く少女のぴんと伸びた背中に、頭頂部でまとめられた波打つ黒髪が揺れていた。
旧校舎の暗い廊下は、ばたばたと多くの子供たちが行き交っていた。
「あ、染谷せんせー」
声をかけられて振り返ると、ダンボールを抱えた男子生徒がいた。染谷が受け持つ六年一組に所属する児童だった。
「おはようございます、先生」
「……留歌くん、もうそんな時間ではないはずだけど?」
それどころか若葉館の規則では外出さえ認められていない時刻だ。
留歌は重そうなダンボールを抱えたまま、へへへと笑う。
「ここでの挨拶は『おはよう』なんだよ、先生。姫がそれで揃えたんだ」
ねぇ、と、〈姫〉というあだ名の持ち主であるマリベルに、留歌からの視線が向けられると、少女は咳払いをした。
「ルカ。もうそろそろ時間よ。あなたはあなたの仕事をしてちょうだい」
「わかってる。それじゃあ先生、楽しんでいってね!」
留歌はダンボールを抱えたまま、ひとつの教室の引き戸を足で開けて入っていった。
楽しめ、と言われても、染谷には何を楽しめばいいのかがまだわかっていなかった。
そこへマリベルが、
「ちょうどいいですから、ここから見ていきましょう」
留歌が入った教室に、どうぞ、と笑顔で中に入るように促した。
真新しい蛍光灯の下に染谷がもぐりこむと―――机のない教室の中で、数人の児童たちが、わいわいと何かを準備していた。黒板に何かを書き付けている児童もいれば、何やら大きなテーブルの周りに椅子を設置している児童もいる。六年一組に所属している児童もいれば、別のクラスの児童もいた。
「これは……えっと、文化祭の予行か何か、かな?」
「違います。本日催されるのは文化祭ではありませんし、予行ではなく本番です」
マリベルは教室の窓際に配置された、楕円形の大きなテーブルへと染谷を案内した。
「これは……」
大きなテーブルは表面に羅紗が張られていて、染谷にビリヤード台を連想させた。
羅紗の上には白や黄色の線のほかに、英語でいくつかの綴りがあった。
「……〈PLAYER〉……〈BANKER〉……〈TIE〉……?」
マリベルに目を向けると、少女はゆったりと頷いた。
「これは、〈バカラ〉と呼ばれるゲームで使うテーブルです」
「……バカラ……バカラって……」
何事かを思い出そうとする、思い出せそうな気のする染谷と、それを笑顔で待つマリベル。
「ちょっと前を失礼」
ふたりの前に留歌が回り込んだ。彼はひとつのプラスチックケースをテーブルに据えた。そのケースの中には、コインやメダルを模した、側面に縞模様のあるゲームチップがぎっしりと詰まっていた。
それを見た途端、染谷は目を大きく見開いた。
血の気の引く思いだった。
「……ま、マリベル……」
絶対に、絶対に、絶対に―――
―――児童たちの手によって、今からこの旧校舎で催されようとしているのは、絶対に、神聖な学び舎で許されていいものではなかった。
染谷は引きつる笑顔で、マリベルに質問した。
「わたしは……夢を、見ているのかな?」
「そのとおりです。先生はここで、夢をご覧になられます」
たおやかに、上品に微笑む異邦人の少女に、染谷は恐怖さえ感じた。
「わたくしどもが今宵、ここで開帳しますのは、バカラ、ブラックジャック、ルーレット、テキサスホールデム、それから麻雀です。染谷先生がおっしゃったように、ここは夢を見る場所。……大人のための遊園地です。あと数十分もすれば、続々とお客様が参られることでしょう」
マリベル・エスコバルは、胸に手を当てて、深く礼をした。
「改めて、〈クラブ〉を代表して歓迎いたします。ようこそ、カジノクラブ〈セルバトス〉へ」
そのとき染谷の目の前に立っていたのは、地球の裏側からやってきた留学生でもなく、外交官の娘でもなく―――カジノの支配人だった。