マリベル・エスコバル
山の麓の町にある居酒屋にて新年度の歓迎会が催され、しこたま酒を飲まされた染谷は、次の日の土曜日、昼近くになって職員寮の自室で目を覚ました。
恒例なのだろう。歓迎会の翌日の土曜日には急を要する仕事も会議もなかった。染谷は歯磨きをしながら休日の過ごし方考えていると、前日にマリベルと交わした約束を思い出した。
職員寮を出て旧校舎があるはずの山裾を見上げた染谷は、しかしそのまま新校舎に向かった。五月の連休まで、基本的に児童は敷地外へ出ることが許されていない。だから休日ではあるが、校舎の中にも外にも児童が大勢いた。
職員室に入り、同僚の教員と挨拶を交わして自分の事務机に座る。
来週の授業で使う教材作りをしようとしていたが、ふと気まぐれを起こして、引き出しの中にしまっておいた資料を引き抜いた。
前任の教師からの特別な申し送り―――マリベル・エスコバルについての資料だ。
カリブ海に浮かぶ小さな島国、ドルミデーリャ共和国。
マリベル・エスコバルの生まれた国は、前に彼女を受け持っていた教師から聞くまでは名前さえ知らない国だった。ほかはともかく染谷義正は、地図帳を開いてようやくそんな名前の国があるのだと知った。
日本の離島ほどにも小さな国で生まれたマリベルは、四歳になったころ、外交官である父親のいる日本にやってくる。外国籍のままの彼女はそういう意味でも〈外国人〉だった。
七歳のときに私立のじか学園に入学。両親の教育の賜物か、日本語にも問題はなく成績は優秀。友人も多く校内活動にも積極的―――
―――ここまでなら、まるで問題のない〈いい子〉だ。
いや、染谷にとってマリベルは実際に〈いい子〉だった。明朗活発で、優しく素直で、染谷の受け持つクラスは彼女を中心とした花のように明るく日が射していた。
だから、敢えてマリベル・エスコバルの〈特別な出自〉について、特別扱いするために仰々しく申し送りをする必要など、これっぽっちも―――
「先生」
「わぁ」
振り返るとマリベルがいた。驚いた染谷は慌てて手元の資料を閉じた。
前日とは違って私服姿のマリベルは、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
「……はい。こんにちは」
染谷も椅子の上で頭を下げる。
「先生、何してたの?」
「ちょっとお仕事をね。マリベルさんは?」
「図書室に本を読みに来たの。先生がいるなら挨拶をしたらって、三郎が言ったから」
ねぇ、とマリベルが背後を振り仰ぐ。染谷も彼女の視線を追う。
マリベルの真後ろに控えていたのは、目方にして少女の五倍はあるのではと思わせる、スーツを着た巨漢の黒人だった。まず間違いなく身長は二メートルを越えていて、日本での生活はさぞかし不便だろうと同情してしまう。染谷はようやく、マリベルの〈護衛〉である彼を見慣れてきたころだった。
「どうもお疲れ様です。三郎さん」
サブローと呼ばれた黒人の大男は、言葉がわかっているのかいないのか、染谷の会釈に応じて、ぺこりと頭を下げた。サングラスをかけているので表情は伺えない。
「先生。今日の約束は覚えてる?」
「もちろんです」
「よかったー」
マリベルは胸の前で手を合わせ、嬉しそうに琥珀色の瞳を細める。
「じゃあ、今晩七時に車で迎えに行かせるから」
「いやいや、そこまでしなくていいですよ」
「いいの。気にしないで。……三郎」
跪いた三郎の耳元で、マリベルはスペイン語で何事かを命令した。
「それじゃあ先生、また夜にね」
「……ええ、また」
マリベルは別れの挨拶が済むと、颯爽と長い黒髪をなびかせて職員室を出て行った。そのあとに三郎が、周囲の視線を集めながらのしのしと付いていった。
ふたりがいなくなって、ふぅ、と染谷は息をつく。襟元に手を当てたところで、緩めるネクタイが今日はないことを思い出した。
特別扱いは、したくはないが当然か、と染谷は考える。
生まれ育ってきた環境が違いすぎる。外国人というだけでなく、ドルミデーリャという染谷の知らない国の中ですら彼女は特別なのだった。
少なくとも、歩く彼女のそばに、常に護衛が付き従うくらいには。