マリベルの企て
午後八時になる数分ほど前に、南都は染谷とマリベルに見送られて校長室を出た。
「本当に、今日はお帰りになられるのですか?」
「ええ、そうするわ。今ならお客さんを乗せてきたタクシーが来ているでしょうから」
先ほどとは違ってきっぱりとした口調で喋る南都は、やっと染谷にも年齢相応に見えた。
「ギャンブルに未練はあるけれど、今日はこの〈戒め〉を、じっくり噛み締めていたいから。……わたし、やっぱりどうかしていたのかもね」
「カジノは夢を見る所です。夢は夢だと気付きません。そして夢はいつか覚めるものです」
「……もう少しきれいに遊べるようになったら、また夢を見に来てもいい?」
「いつでもお待ちしております」
「ありがとう。……染谷先生も」
「わたしですか?」
結局はマリベルの〈十戒〉だけが効果を発揮したとばかり思っていたので、礼を言われたことに染谷は驚いた。
「染谷先生に怒られているとき、とても怖くて、辛かったです。でも、懐かしい感じもしたんです。今思えば優しかった厳しい先生たちのことを思い出して……」
「……私はそこまで立派な人間ではありません。……ろくでもない教育者もいますよ」
「染谷先生に限っては、当てはまらないと思います。そうよね、マリベルちゃん」
「ときどき都合が悪いくらいに優しい先生です」
「ですってよ、染谷先生。……またいつかね」
南都は笑ってふたりに手を振り、廊下を歩いていった。
南都が消えたのを見て、マリベルが染谷の背中を叩く。
「作戦成功よ、先生」
「作戦?」
「染谷先生が厳しく諌める役、わたしが優しく言い聞かせる役だったってこと」
少女の思惑を知り、染谷は驚きを通り越して呆れていた。先ほど偉そうに説教を垂れていた自分は、まんまとマリベルに誘導されていたのだ。
「きみの本心は? 南都先生に結局どうなってほしかったんだい?」
「あの人の信じていた賭博の価値を、〈第二の人生〉から〈暇つぶし〉以下にまで下げることよ」
「……それは成功した?」
「現状は概ね成功と言えるかな。あとは経過を見て判断するわ」
「脱帽だよ、ドクター・マリベル」
「本職には敵わないわ。私の仕事はカジノ経営だもの」
「違う。きみにある役目は〈子供でいること〉以外に何もない」
「はいはい。ありがとうございます。……お客様をお迎えするわ」
マリベルが服装の乱れを直して旧校舎の正面玄関に向けて歩き出す。やれやれとため息をつく染谷もあとに続いた。
すると―――先ほど別れたはずの南都が、玄関でふたりの若い男女と立ち話をしていた。
大学生風のふたりの男女は興奮気味に南都に話しかけていた。
「センセーにお会いできてすっごい嬉しい。あの、サイン、もらってもいいですか?」
「え、ええ、サインね」
「すんませんっす。俺の彼女、先生の大ファンなんスよ。先生がここにいるって知ったら、ここ最近、『わたしも〈セルバトス〉に連れてけー』ってうるさいのなんの」
「嬉しいわ。ありがとう。……でも、わたしがここに来たことは……」
「わかってます。秘密ですよね。誰にも言わない宝物にします」
「お願いね」
会話をしているうちに、南都は自分の作品の単行本にさらさらと宛名付きのサインを書き上げ、若い女に手渡した。ふたりの男女は南都に礼を言って、上機嫌に校舎の中へ消えていった。
すぐさまマリベルが近付いた。
「申し訳ありません、南都先生。先生のご身分は厳しく秘密を守らせているのですが……」
「いいの、気にしないで。わたしも一度だけ、ここで正体ばらしちゃったことあるから」
そこから漏れたのかも、と南都は苦笑する。
「いつごろ、どなたに話されたのですか?」
「確か……ここに初めて来た日ね。仕事を聞かれて、うっかり『漫画家です』って答えちゃったの。そしたらゲームしてる最中でもしつこく話しかけてきてね。だから顔はよく見てない。わたしよりもずっと年上の、痩せたおじさんだったのは覚えてるけど……」
「ありがとうございます。すぐに情報の出所を確認して先生の秘密を守らせます」
「よろしくね」
南都はそれを別れの挨拶にして、今度こそ帰っていった。




