南都の危うさ
翌日の土曜日の午後七時。
一時間後に迫った〈セルバトス〉開店に向けての準備が営々と進められる中、マリベルと染谷は、ひとりの女を前にしていた。
「本日はご足労いただき、ありがとうございます、南都先生」
「う、ううん。全然いいよ。今日も来るつもりだったし」
マリベルによって開店前に校長室に招かれたのは、常連の少女漫画家だった。
革張りのソファの上で、度の強い眼鏡の奥で南都の視線がきょろきょろと動いていた。年齢の割に落ち着きがないなと染谷は思っていた。
「南都先生にお越しいただいて三ヶ月ほどになりますが……楽しんでいただけていますか? 何かご要望やご不満な点がございましたらお聞かせください」
「そんな……十分楽しませてもらってるよ。今までギャンブルなんてしたことなかったけど、新しい趣味を見つけた感じ。子供たちも可愛いしね」
そう言って南都は無邪気に微笑む。
こんなに優しい人がなぁ……と、染谷は思っていた。
ありがとうございます、とマリベルは頷くと、
「本日南都先生をお呼びしたのは、誠に差し出がましい行為だと承知しているのですが、ひとつご忠告をしたいと思いまして」
忠告と聞いて、南都は表情を変えた。
「わ……わたし、何かしたかな? もしかして先週、鍵崎って人に『お金貸そうか?』って言われたから? あの人と話したから?」
「当たらずとも遠からず、といったところです。……南都先生、あなたは、ご自身がギャンブル依存症になりかけているという自覚が、ありますか?」
真剣な面差しで問いかけるマリベルに、南都はきょとんとした表情を浮かべる。
「ギャンブル依存症……わたしが……?」
「わたしの目からは、先生にその兆候が見えます」
「そんな……そんな風に、言わないでほしいなぁ。わたし、これでも働いてお金を稼いで……」
冗談っぽく濁そうと、笑って首を振る南都に、マリベルは真剣に続ける。
「南都先生、ギャンブル依存症はれっきとした病気です。病気ですから、素質と原因があれば誰しもに発症の可能性があるのです。きっかけとなる賭博はこの国に溢れています。ですから決して先生の人格や生活を批判しているわけではないのです」
「ど……どうしてわたしに、その兆候があると思うの?」
「勘と言ってしまえばそれまでですが、先生の中に〈危うさ〉を見たのです」
あやうさ、と南都は繰り返し、マリベルは頷く。
「先生には『これでいいや』と思える中途半端さがないのです。時間の許す限りどこまでも勝負を追求しようとなさっています。想像ですが、南都先生の仕事に関しては、その追求心があるからこそ素晴らしい漫画を生み出せるのでしょうけれど……賭博においては危険でしかありません。賭博で稼ごうとする人間よりも危ういのです」
不老不死の人間がいないように、その日どれだけ運に恵まれていようとも、いつまでも勝ち続ける人間はいない。いつかは必ず負ける。
すべての賭博に通じるひとつの問題は「どこでやめるか」だ。
「わたくしどものカジノは、それほど高いレートを設定しておりません。ここで遊ばれている限りは人生が狂うほどの負けにはなりません。しかし……最悪の想像をすれば、賭博にのめりこんだ先生は、当店のレートでは物足りなくなり、更なる興奮を求めて海外のカジノに通うようになります。そして何度も手持ちが溶けるまで求道的に勝負を続け、賭博をするために多額の借金を作ります。……最後には首が回らなくなり、破滅します」
想像できたのか、それともマリベルの指摘に思い当たる節があるのか、南都は呆然と宙を見つめていた。
「それは……どうかな。わたしはけっこう、忙しい仕事をしてるし。身を持ち崩すほどギャンブルにのめりこむ時間なんて……」
「時間というものが、作ろうと思えばいくらでも作れることは、先生ならばわかっておられるはずです。事実今日も、お忙しいはずなのに時間を作って、先生はここに来られました。賭博の魅力に引っ張られて。勝ったときの一瞬の甘い恍惚をもう一度味わいたくて」
「だ……だから、なに? わたしに、な、何を言いたいの?」
図星を指されたのか、南都の応対に余裕がなくなる。
マリベルはソファから立ち上がり、南都の隣に腰を下ろして、彼女の手を取った。
「わたしは先生が心配なの。だから約束してほしいの。『ここ以外では賭博をしない』って」
マリベルの親しげで優しげなその言葉を聞き、「約束と違うよ」と思わず染谷は割り込んだ。
「マリベル、きみは僕に『南都先生の賭博をやめさせて』と言ったはずだ」
「嘘は言ってないわ。気が変わっただけ。今の南都先生の様子じゃ、きっと賭博をやめられない。それならせめてわたしの目の届く所にいてほしいなと思ったのよ」
カジノ支配人である少女のもっともらしい言葉に、染谷は首を振る。
「きみのそれは、単に自分のカジノに彼女を縛りつけようとしているだけに聞こえる」
「考えすぎよ。わたしなりに南都先生を思ってのことを言ってるの」
舌打ちが鳴りそうになるのを堪えて、染谷は南都に向き直る。
「南都先生。わたしはこの子の担任教師の染谷です。彼女とほかの児童たちに、どうにかしてこのカジノの営業をやめさせたいと考えて、今は彼女たちを見守っています……が、今回はあなたに一言申したい。立場は違いますが、わたしもあなたも子供たちに何かを伝える仕事です。子供たちに向けて漫画を描いているあなたには、少なからぬ願いがあるはずです。『未来ある子供たちに健やかに育ってほしい』という願いが、わたしと同じように」
染谷の厳しい声音の弁舌に、南都は顔を伏せた。しかし染谷は続ける。
「この世で悪しき売買が裏で行われるのは、需要があるからなんです。賭博をしたい、やめられないというあなたのような人がいるから、カジノという不健全な商売が成り立つのです。今のあなたは自分の姿を子供たちに誇れますか?『こういう大人になれ』と胸を張れますか?」
どうして自分よりも年上の女性に説教しなければならないのかと思うが、協力してくれるはずのマリベルが南都を賭博に誘うようなことを口走ったため、自分が鬼になるしかなかった。
「あなたのだらしなさを非難しているわけではありません。賭博に引っ張り込まれているあなたの無謀さが心配なんです。子供たちにあなたの人生が狂っていくところを見せたくありません。わたし自身も見たくありません。……南都先生。勇気を出して賭博を断ちましょう。今のあなたにはそれが必要です。あなたの人生は賭博で終わらせていいはずがありません」
そこまで言い切ったときには、南都はすっかり萎縮していた。しかし染谷は言い過ぎたとは思っていなかった。このくらい強く言わなければ伝わらないと思っていた。
打算があってのことではない。染谷には本心から、南都に賭博から足を洗ってほしかった。
邪魔をせずに染谷に喋らせていたマリベルは、丸くなった南都の背を撫でた。
「染谷先生は厳しすぎよ。……でも、その意見も正しいと思う。誘惑は、騙してごまかして、ときには意志の力で退けることも必要よ。……わたしとしては、南都先生がさっき言ったように、賭博を〈趣味〉のひとつにとどめてほしいと思っているんだけどね」
そう言ってマリベルは、懐から一枚の封筒を取り出した。
「南都先生。これからは、休暇の息抜きに賭博をしたいと思ったときには、ここに書いてあることを守ってくれる? 守ると約束してくれる?」
「……やくそく?」
顔を上げた南都を、マリベルが優しい笑顔で迎える。
「わたしが先生に教えられる、賭博の掟……またの名を〈賭博の十戒〉よ」




