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CERVATOS  作者: 春戸 稲郎
五月
24/66

支配人の苛立ち


「困ります、理事長先生」

 マリベルは自分の椅子から立ち上がって、職員室に入ってきた理事長を制止する。

「ここには機密もあります。〈お客様〉の立ち入りは厳禁です」

「わたしは学園の理事長だよ?」

「そのとおりです。そしてわたしは〈セルバトス〉の運営責任者です。ここではわたしの指示に従ってください。お話なら伺います」

 マリベルに案内され、ふたりは廊下に出た。

 軽蔑をこめた視線で見送った染谷は、

「理事長先生、まさか口止め料の前借りをしに来たのかな」

「うーん……もっとろくでもないことの相談だと思うなぁ。姫様はたぶん、すっごく機嫌悪くなって帰ってくると思う。避難しとこっと」

 そう言って、恵真は自分の席に戻った。

 数十分後、懸念どおりに不機嫌な顔で、マリベルが肩をいからせて帰ってきた。

 立ったままぬるくなった緑茶を一気に飲み干す。

「エマ! おかわり!」

「はーいっ!」

 声と態度の割に〈おかわり〉という表現は可愛いな、と平和に思えたのもここまでだった。

愚鈍(ぐどん)慳貪(けんどん)な豚野郎が……カリブに沈めて魚のエサかサンゴ礁にしてやりたいわ……!」

 彼女に関してはそれが実行できるかもしれないと思えるので、染谷には心底恐ろしかった。

 その後マリベルは、恵真から二杯目のお茶を出されるまで、椅子に座って机を蹴飛ばしつつ、舌打ちしながらスペイン語で悪態をついていた。染谷にはずいぶんあとになってわかったことだが、彼女はこのとき、性的に下品な罵詈雑言を口汚く呟いていた。

 二杯目の茶が来て、少し落ち着いてから、染谷は尋ねた。

「マリベル……あの〈豚野郎〉から何を言われたの?」

 心情的にはマリベルのほうに寄り添えたので、自然な代名詞だった。

 少女は深い吐息に憂鬱を乗せた。

「口止め料の増額を求めてきたわ。……小銭で遊んでいればいいものを、高いレートの麻雀に手を出しやがって……身の程を知らないで井戸を出るから、蛙は海で溺れるのよ……安全なところで王様でいろっての」

「その……理事長先生の〈おかわり〉は、断ったの?」

「当たり前でしょ! 稼ぐに追いつく貧乏なしって言い回しがあるけど、浪費に追いつく稼ぎもない。いくら渡したってあの腐れ豚野郎は使い切るわ!」

 豚野郎がさらに酷くなった。

 これ以上マリベルに喋らせていいものかと染谷は迷ったが、彼女の愚痴は止まらなかった。

「そしたらあいつ、何て言ったと思う?『落語家と漫才師を呼べるくらいに稼げるようになったのは、わたしの協力あってのことだろう?』だって! 信じられる? だったら自分で客呼んで人雇ってカジノを仕切ってみなさいっての。舞兎師匠にだってお金積んだだけで頼めたわけじゃないってのに、自分は遊んでるだけで何を言ってるのかしら。空いてる土地を借りるだけでこっちは毎週百万も払ってやってるのに! 守衛や若葉館の館長やタクシー会社にだって口止め料と協力費を払ってんのよ? これ以上払えるわけないでしょうが!」

 どんどんエスカレートしていくマリベルの苛烈な愚痴に、恵真のほかにもいる監視班のメンバーは口をつぐんで下を向いていた。

 聞き役はお願いします、という児童からの声なき懇願が染谷には聞こえた。

「そ……それで? 腐れ豚野郎にどう言い返してやったの?」

「こう言ったわ。『わたしはいつでもカジノを閉鎖できます。メンバーは誰も困りません』とね」

「いいね。理事長先生は困っただろう」

「ええもちろん! そのときの腐れチンポコ豚野郎の慌てっぷりだけは面白かったわ! あいつが家庭に居場所がなくてケチな博打に逃げてたのはカジノを始める前から掴んでいた。今さら遊び場と軍資金を取り上げられたらあいつは困るからね!」

「う……うん」

「『来週にはきっと勝てますよ』って優しく言ってあげて、ようやく諦めてくれたわ。腐れチンポコげろ舐め豚野郎め! 人をイラつかせる才能だけは褒めてやる!」

「………………」

 もう染谷には、相槌さえ打てないほどの剣幕だった。

 このまま〈寿限無(じゅげむ)〉のようにどこまでも理事長の不名誉な代名詞が伸びていくかと思われたが、いきなり、染谷から見て本当にいきなり、マリベルの表情が急速に静まった。

「はぁー…………言うだけ言ったらすっきりしたわ。聞いてくれてありがとね、染谷先生」

「……どういたしまして」

「みんなもごめんねー」

 マリベルは職員室の監視班メンバーに手を振った。彼女の癇癪(かんしゃく)には慣れているらしく、メンバーのひとりの男子は笑顔で親指を立てている。「よく言ってくれた」とでも言いたげに。

「さて、そろそろ寄席(よせ)も終わって、お客様がプレールームに戻ってくるころね」

「見回り?」

「それと誘導ね。奥野っていう生臭エロ坊主と、無間斎っていうインチキ宗教家がいるんだけど、このところふたりの仲がすこぶる悪くて、顔合わせないように調整してあげてるのよ」

 まだマリベルの言葉の端々に未消化の怒りが散見されたので、染谷はただ、そうかい、と返事をするだけにとどめた。

「どっちも派手に遊んでくれるから、できるだけ意に副うようにしたい……けど、最近はほとほと面倒だわ。先生も来る? ありがたーいご尊顔(そんがん)を拝めるわよ?」

「いや、遠慮しておくよ。メンバーに対して客が多すぎるんだから、今日の僕は邪魔だろう」

「邪魔だと思ってたら建物にも入れないわ。……さっきは当たり散らしてごめんね」

「子供が遠慮することはないよ」

 染谷がそう言うと、マリベルは、ふふふと笑う。

「先生のそういうところ、大好きよ。私を子供として見ようとしてくれるから」

 じゃあね、とマリベルは、染谷の返事も待たずに颯爽と職員室を出て行った。

 染谷がマリベルの言った言葉の意味を考えていると、彼女が使っていた湯飲みを片付けに恵真がやってきた。

「染谷先生ってすごいね。姫様が大人の前であんなに素直になってるとこ、見たことないよ」

「そうかな? ここでの僕は、客でもメンバーでもないただの第三者だけど」

「だからいいんじゃないかな。友達付き合いしてたって気は遣うから、何も気にせずに話せる人って、すっごく大切だと思うよ?」

 そうかもしれない。別に友人であっても構わないだろうが、「何を話しても関係が変わらないことがわかっている人間」というものは、確かに貴重だろう。

 もちろん前提としてある程度信用されているからこそなのだろうが。

「教師としては、嬉しいけど困りもするなぁ。彼女のカジノを応援する気はないのだし」

「けっこう頼りになってるんだよ? 姫様にカジノをやめさせたいのなら、先生がここに来ないほうが案外効果あったりして」

「いや、見守ることをやめるわけにはいかないよ」

「大人って大変」

 恵真は笑いながら空いた湯飲みを持っていった。

 ―――それから数時間後のことだった。

 さらにマリベルを困らせるトラブルが発生した。

 苛立ちを発散させるために、マリベルは三郎の腹筋をサンドバッグにして、何度も何度もパンチを打ち込んでいた。怒りのせいで無言で淡々と。その様子はスポーティですらあった。

 あのボディガードも大変だなと、黙って腹を殴られ続ける巨漢の黒人を染谷は見つめていた。


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