制裁
そらなの案内にマリベルはずんずんと廊下を歩き、その後ろを染谷は付いていった。騒ぎを聞きつけたのだろう。道中で三郎と権左も合流した。
ゲームルームとして使用している教室の明かりが漏れる暗い廊下。問題の現場には客の人だかりができていて、中で起こっている騒動の野次馬となっていた。
「申し訳ありません! 通ります! 通ります! 道を空けてください!」
よく通る声でそらなが露払いをすると、客たちはマリベルを見て人垣の中に道を作った。
そこには先週にも騒ぎを起こした寺山と、彼に胸倉を掴まれながらも、歯を食いしばりながら自分の腕を後ろに回して無抵抗の意を示す、眼鏡の男子児童がいた。
「そこまでです! 寺山さんは〈セルバトス〉のメンバーから手を離してください!」
マリベルが鋭く呼びかけると、寺山は鼻を鳴らして男子を解放した。
担任クラスの児童ではない。彼の名前は……と記憶の底を染谷が攫う。
「リコ、怪我はない?」
「残念ながら無傷だよ、姫」
そうだ、隣のクラスの李虎という児童だった。眼鏡をかけたおとなしそうな外見なのに、意外と喧嘩っぱやくて困っていると、二組の担任教師が漏らしていたことを染谷は思い出した。
衆目に見つめられながら、「運が良かったですね、寺山さん」とマリベルが切り出した。
「もしもわたくしどものメンバーに手を上げていたら、問答無用であなたの奥歯を砕いて飲み込ませていたところです」
マリベルの背後では、殴りそびれた右の拳を左手で宥めている三郎が立っていた。彼の右フックを食らえば左の奥歯はすべて一度になくなるだろうと、思わず染谷は左頬を押さえた。
対して寺山は、へらへらと笑ってその場を濁そうとする。
「かっとなったのは悪かったよ。でも俺は悪くないんだぜ?」
「伺いましょう」
「義理のある人から急に、今から飲むぞって電話がかかってよ。ちょうど通りがかったこいつに、『帰るから換金してきてくれ』ってチップを渡したんだよ。十万円チップ十枚で百万円分な。そしたらこのガキ、万札一枚しか持ってこねぇんだよ。『見なかったことにしてやるから、ごまかさずに百万円持ってこい』って俺は優しく言ってやったんだぜ? それなのに『俺は間違ってない』って譲らねぇんだよ。仕方ねぇから、ちょいときつく説教してやってたんだ」
ぬらぬらと語る寺山の口様に、染谷は反吐が出る思いだった。
きっと同じ思いだろうマリベルは、しかし表情を変えないまま、なるほど、と頷いていた。
「リコ。今の寺山さんの話は、本当なの?」
問われ、李虎は、眼鏡の奥の剣呑な表情を消さないまま、吐き捨てるように答える。
「このおっさんの言ってることは、千円チップを十枚しか寄越さなかったことと、『お前も先週のメスガキみたいに泣かされてぇのか』っていう件が抜けてる以外は、事実だよ」
皮肉をこめた李虎の言い回しに、なるほどなるほど、と頷いたかと思うと、急にマリベルは、至極申し訳なさそうな表情を作った。
「食い違いが生じていますが……さて、わたくしどもは、どうすべきでしょうか、寺山さん。ご希望があればお教えください」
まさか、と染谷は思った。
不安ではなく不穏が胸を泳ぐ。
それに気付かない寺山はにたにたと笑っている。
「そうだなぁ……とりあえず俺がこのガキに渡した百万は当然として、先週今週と続けてこそ泥の迷惑を受けたんだ。慰謝料としてもう百万、きちんと揃えてもらおうか。みんなの前で誠意を見せてもらおう」
先週の件も含めて、寺山の起こした騒ぎは確実に虚言である。
まさか、ここに来てマリベルがまたしても下手に出るはずがない。それは絶対にない。
寺山からの要求に、なるほどなるほどなるほど、とマリベルは頷いている。
染谷には寒気がした。
本気で怒ったとき―――この子は静かになるのだと染谷は知った。
「非常に残念ですが、寺山さんのご希望には副えません。わたしの一存で、換金は正しく行われたものと見なします」
「……おいおいおいおい。聞いたか、みんな。俺は確かにこのガキに金を掠め取られたんだぞ?それなのにこの支配人様は、客を信用しないときた」
周囲に視線を振り撒く寺山は、若干ながら余裕をなくしていた。まるで周りに助けを求めているようだった。
「なぁマリベルさんよ、客は大切にしたほうがいいぜ? この国には『お客様は神様です』っていうありがたい金言があるんだ。知ってるか?」
「存じております。しかし、こちらから神様を選ぶ権利もあります。日本国憲法では信教の自由が保障されていますから」
マリベルの気の利いた言い回しに、野次馬の誰かが吹き出した。
寺山は焦りと苛立ちが表情に表れる。
「言葉遊びはよせよ。てめーは外人だろうが」
「わたしが外国人であることを持ち出されるのであれば、あなたはただの営業妨害者です。速やかにお引き取りいただくことが、ほかの〈お客様〉に対する誠意であると判断します」
「なんだとぉ?」
「口を閉じてください、寺山さん」
ぴしゃりとマリベルが封じると、その場にいる全員が静まり返った。
「優しく言うのはここまでですよ、寺山さん。よく聞いてください。当カジノクラブ〈セルバトス〉の従業員が、『盗んでいない』と言いました。わたしは彼、リコのことをよく知っています。彼はどんな衝突や摩擦を生もうとも絶対に嘘を言わないという稀有な信念を持ち、自分に過ちがあると思い至ったときには必ず謝ることのできる素直さを持っています。そんな彼が『やっていない』とはっきり言ったのです。あなたの証言よりかは十分に信用できるのです」
マリベルは琥珀色の瞳で、まっすぐに寺山を見つめる。
「寺山さんは『見なかったことにしてやるから』と優しくおっしゃったようですから、お礼に今度はこちらから優しく言いましょう。……この場はあなたの〈勘違い〉ということにして差し上げますから、何も言わずにご納得してください」
「ぐっ……」
カジノ支配人の強硬な姿勢に、寺山は周囲に視線を配った。しかし、〈セルバトス〉のメンバーはもちろん、野次馬のすべてが、彼を見つめていた。彼の味方はひとりもいなくなった。
「こ……このガキが盗みを働いていないっていう証拠はあるのかよ! お前らがグルになったらごまかされたほうは泣き寝入りじゃねぇか!」
寺山の抗弁に、やれやれとばかりにマリベルは首を振る。
「本来なら証拠というものは疑ったほうが用意すべきだと思いますが、あなたの意見も一理あります。……リコ。ポケットを叩いてビスケットを魔法のように取り出しなさい」
マリベルは李虎に向けて手を広げた。
「姫よぉ……さすがに、ここまで来るのに回りくどすぎだ、まったく」
そう言ってズボンのポケットを探ると、李虎は小さなICレコーダーを取り出した。
呼応して、騒ぎを聞きつけて集まったほかのメンバーもまた、ポケットから同じレコーダーを見せつけた。
寺山は大きく目を見開いた。
「レオというメンバーに頼んで、〈セルバトス〉のメンバー全員に持たせておきました。あなたに近付く際には録音を開始するようにと指示しておりました。……リサの涙を、わたしは無駄にはしません。仲間が侮辱されたことも許しません」
マリベルの周到さももちろんだが、完全に寺山の心を折る順番でのカードの切り方が染谷には恐ろしかった。
自分自身が持っていたレコーダーを振りながら、マリベルが判決を下す。
「寛大な処分で許して差し上げようと思っていましたが、『証拠を出せ』とまで言われれば、リコのレコーダーに残っているはずの『千円チップ十枚の換金でよろしいですね?』という音声が、あなたの虚言の証拠となって出てきます。……わたしたちのカジノから金をせしめようとした罪は軽くありません。寺山さんは今後、当店では出入り禁止とさせていただきます」
マリベルからの鮮やかな出禁宣告に、周囲の野次馬は称賛の口笛を吹き鳴らした。
しかし、憎しみのこもった目でマリベルを睨む寺山を見ていた染谷には、むしろ不安だった。これほど徹底的に叩きのめすと逆恨みを買って警察に通報されるのではと心配だった。
「……さて、ここからは〈大人の交渉〉の時間です。……権左」
少女が護衛に耳打ちすると、金髪の白人が内ポケットから帯封の付いた札束を取り出した。
「出入り禁止処分となりましたが、寺山さんには、どうかせめて、わたくしどもの変わらぬ安寧を祈っていただきたい。そこでここにある百万円をご融資したいと思います」
不可解な施しの提案に周囲がざわつくと、「お静かに願います!」とそらなが声を張った。
「寺山さん。どうしても緊急にお金が必要で、このような虚言を働いたのでしょう? 最近株取引で失敗なさって大きな損害を受けたという情報を、わたくしどもは掴んでいます」
マリベルは見せ付けるように、ぱらららら、と札束を指で弾く。
「わたくしどもの作成する借用書にサインしていただけましたら、この百万円をお貸しします。形式上利息もつきますが返済は結構です。督促もいたしません。ただし、もしもこの融資を受けたあとで、当店が警察に踏み込まれた場合には、その借用書を金融会社に託し利息を含めて回収に向かわせます」
「お……俺じゃなくて、ほかのやつが通報してもか?」
「残念ながらそうなりますね。寺山さんのほかにも三名ほど、同じ条件でご融資しています。……ですが、あなたにはもうほかに、金策の当てはないのでしょう?」
マリベルのいやらしい笑みに、染谷はぞくりと背筋が凍る。
「我々は一蓮托生なのです。どうかどうか、〈セルバトス〉が楽しい大人の遊園地であり続けられるよう、お祈りし続けてくださいませ」
―――結果、寺山の心は完全に折れた。彼は別室で書類を作成し、マリベルから金を借りて〈セルバトス〉をあとにした。
その晩の染谷は、マリベルの話し相手になる以外には、ついに見守ることしかできなかった。




