永遠の別れ
「アイ、番人を引き継いでくれるのですね」
ヴォイスの穏やかな声が響き私は大きく頷いた。
そしてケイに向かって〝やるよ″と言った。
ケイはさほど嬉しそうにするわけでもなく、当然と言った顔をして足を組み偉そうな態度で頷く。願いが叶ったんだからもっと嬉しそうにすればいいのに全く素直じゃない。でも大喜びされても引いてしまうけどね。だって全然らしくないから……
「ケイも異論はないですよね」
「勿論だ…ヴォイス」
「では決まりです」
私は大きく深呼吸した。別に何か成し得たわけでもないのに変な達成感みたいなものを感じている自分が少し可笑しかった…これから番人としての仕事?…と言っていいのか分からないけど此処で果たすべき事をやって初めて感じる事なのにね。
でも、此処で達成感を味わう事など有るのか疑問に思った。
……まぁ、その為に来たわけじゃないからいいや…
視線をケイに向けると大きな瞳で見つめ返され、まるで重力を感じさせない動きで立ち上がり、そしてこの空間で唯一あり続けた白い椅子を感慨深げに触れた。
……今なにを考えているんだろう?
……これまでの自分?其れともリアルワールド?
こんな素晴らしい世界から元の場所に戻ろうと思うなんて私には分からない。……郷愁と言っていたけど其れだけじゃない筈…言っていない、言いたくない理由があるのだと思った。
知りたい……でもきっと答えてはくれないだろうな。
少し溜息が出た。
見つめる先のケイはシルクを撫でつける様にゆっくりと指を滑らすと、椅子から離れ薄っすら私に微笑んだ。そしてバレエダンサーの様な優雅な仕草で座るように誘導してくれた。
誘われるまま椅子の前に立ったけど、少し躊躇してしまった。
ケイの指定席に自分が座る事に成るなんて思いもしなかったし、この椅子は聖域のように感じていたから、そこに踏み込むなんて……緊張とこの世界に受け入れてもらったという喜びで直ぐに腰を下ろす事が出来なかった。
「どうした…今、この時点からアイの椅子だ。遠慮しないで座るといい」
澄まして立っているケイをチラリと見てから、さっき彼がしていたように背もたれに触れ、高鳴る鼓動を感じながら腰を下ろした。
ゆっくりと息を吐く……吸い込まれそう……思っていた通り座り心地がいい。この世界の一部になれた様な…そんな気がした。
ケイが手をスライドさせてみろと言うのでやってみると、空中に画面が浮かび上がり手元にもタッチパネルキーボードが浮かんでいた。なんだかマジシャンにでもなった気分……違うそんなもんじゃない。不思議な力を手に入れ神にでもなった様なそんな感覚。
これまでの自分を記憶の遥か彼方に追いやって、これから始まる刺激的で魅惑的な毎日を想像して興奮した。
私は此処に存在するべくして存在しているんだ。
体温が上がる……気分は最高。
◆◆◆◆◆
アイは恐る恐るタッチパネルに触れパラレルワールドが映し出されると、突然フラッシュが焚かれたみたいに眩しかったのか目を閉じてしまう。そしてゆっくり開き馴れてくると徐々に顔を近付け瞬きを忘れてしまった様に画面にくいついた。
俺の立っている場所からパラレルワールドの映像は見えない。しかしアイの顔はよく見えた。
……恍惚とし、ほんの少し白い歯を覗かせ笑っている。
時折り画面に触れそのまま映し出されたパラレルワールドへ入り込んでしまいそうだ。
……とてもいい表情だ。
俺は……そう、とても気分がいい。
少し離れて立ち今まで自分の定位置だった場所を眺めると不思議な感じがした。
もう、あの椅子に座り無限のパラレルワールドを見ることも体験することもなくなったのだ。
自分は特別ではなくなり当たり前の人間に戻る。しかし大して寂しさは無い…望んで譲った椅子、そして番人という役目だ。
未練などない。
そんなものを抱くほどこの世界に強い思いも離れがたい人もいない。
この場所は俺にとって一体なんだったのだろう……自分の生まれた世界に背を向けてまで此処へとどまり、無数に、無限に散らばるパラレルワールドを我が物顔で、支配者にでも成ったように勘違いして旅して、何かを得られたのだろうか?……そんなものなどない様に思う。ただ……いくら刺激的で魅惑的なパラレルワールドを旅していても、この白い空間の俺には何も起こらない。どんなに体感しても戻れば静かな何もない世界に1人…
周りに誰も居ないから孤独なのではなく、何も起こらないから孤独なのだと知った。
何かを得たとすれば其れかも知れない。
どれだけの時間を過ごしたのか分からないが、此処での時間が必要だった。
それはもしかしたらリアルワールドで生きる為のアディショナルタイムだったのかも知れない。
では、その時間はもう終了だ。
俺は俺の世界に帰る。
「ヴォイス、俺の扉を出してくれ」
◆◆◆◆◆
なんの変哲も無い扉が白い空間に現れた。
此れが俺のリアルワールドへつながる扉なのか…
「ケイ…もう戻るの?」
「戻るさ…番人はアイなのだから俺は無用の人間だ」
「そんな無用だなんて……もう少しいたらいいじゃん」
白い椅子を少し回転させ身体を此方に向け、心無し寂しそうに俺を見上げている。
「そんな顔するなよ」
「どんな顔しているって言うのよ」
「俺がいないと心細くて寂しくて、1人じゃ何もできない…って、情けない顔だよ」
俺は馬鹿にしたようにニヤつきながら言った。
アイは反発する強い口調で〝そんな訳ないじゃん″と、少し頬を膨らまし画面のパラレルワールドに視線を戻した。
それでいい……たくさんのパラレルワールドを見つめて、たくさんの人の思いに触れるといい。その先に君の本当に求めているものが見えてくるかも知れない……何もない可能性もあるけどな…其れはアイ次第だ。
俺は扉に視線を移すと、触れもしないのに静かに開いた。
「ヴォイスありがとう。元気でな」
「はい…ケイも…お元気で」
「ケイ…」
アイの呼ぶ声を背中で受け振り向くことをしなかった。
「アイ、楽しめよ。リアルワールドで味わえなかった沢山の事を此処で…」
「うん」
「見送るな…パラレルワールドを覗いていろ」
「うん」
扉の向こうに足を踏み入れる。
振り返った。
アイ……君とのパラレルトリップは結構楽しかったよ。もう会うことも無いが、これから先君が君らしくいられる事を願っている。
扉がゆっくりと…本当にゆっくりと時間をかけて閉じていく。
帰れる喜びを感じながら、全てが閉じられる瞬間まで君を見ていよう。
◆◆◆◆◆
…………扉が閉じた。
当たり前にこの場所に居たケイはリアルワールドへ帰ってしまった。
私は……見送る事をしなかった。
ケイがそう言ったから……
ずっと空中に浮かぶ映像を見ていた。まるでケイの事などどうでもいいかの様に…魅入られた様に…そんな素振りをしていた。
其れに、扉の向こうに行ってしまう姿を見たら引き止めてしまう気がして……嫌だった。
最後に……〝感謝する″…と、そんな言葉が聞こえたような気がした。
本当に気のせいかも知れないけどそんな気がした。
私は映像を止め椅子に身体を預けて耳をすませた。
……静かだなぁ。
心を乱す雑音も聞こえない何処までも白く続く終わりが見えない場所。
心地いいな……
「アイ」
「なぁに、ヴォイス」
「ケイがどんなリアルワールドに戻ったか見たくありませんか?」
私は身を乗り出して白い空間を見つめた。そこにヴォイスの姿があるみたいに…
「できるの?」
「勿論、見たいですか?」
「見たい!」
触れてもいないのに映像が流れ出した。
胸が高鳴る…
顔を近づけた。




