苦痛と退屈……戻りたい男と逃げたい少女
この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか……
帰れる……やっと帰れるんだ。
最初の頃は刺激的で魅惑的、誰にも縛られない自由な場所で退屈なんて言葉は頭の隅にも思い浮かばないそんな毎日だった。
其れまでの人生が色褪せて見え、この空間が最高の場所だと確信していた。
……愚かだった。
いつからか退屈という言葉が脳を支配し始めた。
そうなってくると何もかもが惰性に垂れ流す映像のようで何の感動も与えてくれなくなった。そして苦痛に変換し絶望へと落ちてゆく。
なぜ俺はここに居るのだろう……
どんなに思い出そうとしても答えが見つからなかった……見つからないと其れに固執する。グルグルと同じ事ばかり考え全てが停滞していく。
……帰りたい。
でも、帰れない……俺は徐々に腐敗していく…最悪だ。
これは何かの罰なのか?……それさえも分からない。
力無く笑う…………笑うしかなかった。
でもそれも終わりだ。
帰れるのだ……長かった。
……長かったのか?
実はそう思っているのは自分だけでたいして時間は経っていないのかもしれない。
何十年も時を刻んだように感じるが、俺自身は歳をとってない……
ここへ来た当時と何の変わりもなく若いままだ。
どうだっていいか……考えても意味がない。アディショナルタイムは終了したのだ。
心が躍る。
この扉を開けば懐かしい場所に立つことができる。
最後に俺の定位置だった白い椅子に視線を向ける。
君がゆったりと座っている……悪いけど後は任せるよ。
この絶望的に孤独な場所に君は耐えられるかな?
あゝ……最初の頃の俺と同じ表情をしている。世界は自分の掌で回っていると勘違いをして魅入られたように座っている。
存分に楽しむといい……いま、君の前には無限の世界が広がっているのだから……
さようなら……感謝するよ。
◆◆◆◆◆
もし……もし世界が幾つもあったら……
そこには違う人生を歩んでいる自分が存在していたら、もしかしたら存在さえしていないかもしれない。
……その世界を見てみたい。
自分は何を見て、何を考え生きているのか……そして自分が存在しない世界とはどんな世界なのか……
家族は?友人は……周りの人たちはどうなっているのだろう?
未知なる世界を目の当たりにした時どう感じるのか……
不満だらけの日常から逃げ出したいと思っている私の脳みそが、フッとそんな馬鹿げた考えを、砂時計の砂が落ちてゆくように心に積もらせていった。
鼓動がはやくなる。
ドキドキして、ワクワクしている。
そんな世界に行く事なんて出来ないのに……
誰にも見られないように長い髪で顔を隠し声も立てず笑う。
我ながら不気味だと思うけど、想像するだけでこのつまらない毎日を忘れ高揚感が湧きあがる。
顔をあげて周りを見てみる。
放課後の長い廊下には、甲高い声でくだらない話をしながら下校する女子生徒、ふざけながら我が物顔で広がって歩く男子生徒、部活に急ぐ生徒……聖職者というだけで偉そうな態度の教師に、笑みを浮かべ自分は生徒を理解しているとアピールする偽善者教師…偉そうにしている奴よりタチが悪い。
どいつもこいつも馬鹿面晒してウンザリする。そして、こんな連中と同じ空気を吸って時間を共有している自分に吐き気がする。
……最悪だ。
だから馬鹿げた考えが頭の中を支配する。
……ここは私の居るべき場所ではない。
この世界は私を隅へ隅へと追いやる……汚れた箒で容赦なく。
そしてゴミ箱へ……嫌だ。
嫌だ…嫌だ……イヤだ!
こんな世界私から捨ててやりたい!
目の前に広がる灰色の世界に爪を立ててグチャグチャに破り捨てたい。
誰にも届くことのない心の叫びをあげる。
両方の拳でこめかみを強く押さえた……と、突然後ろから肩を叩かれた。
◆◆◆◆◆
寛いだ姿勢で椅子に座り白い空間に浮かぶ映像を眺めていた。
俺はたまらなく嬉しくてニヤリとした。
「随分楽しそうですね…ケイ」
「そう?」
姿がなく声だけが響く。
声の主の名前は〝ヴォイス″……長い付き合いだが1度も姿を見せたことがない。そもそも形として存在しているのかも分からない相手だ。
この場所の番人として俺を迎え入れてくれた正体不明の唯一の話し相手……
「ええ、とても……久しぶりにそんな表情を見ました」
俺は白い空間を見上げ見えるはずもないヴォイスの姿を探すみたいに視線を動かした。
其れから再び映像に戻る。
「……そう……かも知れない。何か起こりそうなそんな気がする」
「起こりそう……起すのではなく?」
俺はニヤリとしてヴォイスの問いには答えず映像を食い入るように見つめた。
◆◆◆◆◆
振り向くと相川真奈が立っていた。
特別友達という相手ではない。ただ同じ中学からこの高校へ進学した女子が私と彼女の2人だけというだけで纏わりつくうざったい相手だった。
「なにしてんの?」
上着のポケットに両手を突っ込んで親しげに笑いかけてきた。
「別に」
気安く話しかけないで欲しい……相手する気分じゃない。
私は相川真奈の顔も見ないで歩き出した。
「……なんか、心ここにあらずって感じだったけど?」
後ろをついて来る。
迷惑だって分からないのだろうか?鈍感で無神経な人間は嫌いだ。
私は無視し続けた。
「……今日の数学の課題、量が多いと思わない?英語も物理も出てるのに明日までなんて無理よ……ああぁ、勉強のない世界があったらいいのに…ねぇそう思わない?
……ねぇ、聞いてる?」
聞いてはいない……雑音が聞こえるだけだ。
「なんだ君たちはもう帰るのか?部活はどうした」
階段を上がってきた体育教師が声を掛けてきた。上下揃ったジャージ姿で爽やかな笑顔を見せている。
確か今年赴任してきた……名前なんていっただろうか?……クラスの教科担当ではないので忘れてしまった……関係ないからいいか。
「茶道部は今日ないんです」
律儀に相川真奈が答えた。
今日は…って、週に一回も無いじゃない。
……あれ?同じ茶道部だったんだ……知らなかった。でも、他の部員もよく知らないけどね。
「文化部か……これから陸上部の練習に行くんだが君たちも来ないか?走ると気持ちがいいぞ」
「ええぇ…運動苦手だから文化部なのに、お断りしま〜す」
相川真奈は私の腕を取り2人で逃げるように階段を駆け下りた。
「あっ、おい」
少し振り返って見ると体育教師は苦笑いしながら頭をかいて教室へ入って行った。
1階まで一気に駆け下りた私たちは少し息を切らしながら下駄箱へ向かった。
「ねぇ、痛いんだけど……手、離してくれない」
「あ、ゴメン」
彼女の手から解放されると私はサッサと靴を履き替え外へ出た。
「ねぇ、どっかでお茶していかない?」
「急ぐから」
冷めた声で断り背を向けて歩き出した。
「そう…じゃあ、また明日ね」
ちょっと残念そうな声が聞こえた……でも、心はチクリともしない。
だいたい〝また明日″ってなに?
明日も会おうねって事?…そりゃ会うでしょ同じクラスなんだし、其れとも明日も話そうねって事?……友達でもないのに?
なんで私に纏わりつくのだろ…ウザったい。
校庭では運動部の生徒たちが声を出しながら青春という文字をそこら中に撒き散らして汗を流している。
私はそんな彼等を横目に正門へ歩いて行く。
途中、今は使われなくなったプレハブの部室が体育館裏にある。
夏休みには取り壊される予定で立ち入り禁止になっている場所なのだが、誰か入って行くのが見えた。
興味をそそられ後をつける。
一番奥にある部室前でその誰かは左右を伺い入ってしまった。
……あれは、さっきの体育教師?
でも、ジャージ姿じゃない……全身白い服…着替えた?……これから陸上部の練習だと言っていたのに…おかしい。だってどう見ても履いている靴は運動靴じゃないもの……
私の中の好奇心が更に後をつけろと囃し立てる。
そっとドアを開けて中を伺った。
使用禁止になってから随分経っているので、蜘蛛の巣がそこら中に張られているし埃っぽくクシャミが出そうになる。それを我慢しながら用心深く進んで行くが体育教師の姿はなかった。
そんな……確かにこの部室に入って行ったのに…隠れる場所なんてないし……消えた?
私は部室を見回した。
元はバスケ部が使用していたのだろう…表面が剥げたボールが雑然と転がっている。
脚の部分が壊れ斜めになっている長椅子に部屋を取り囲むように置かれた壊れた古いロッカー…………
突然背後からギィーと音がし、振り返るとロッカーの扉がゆっくりと開いた。
私は唾を飲み込み恐る恐る近づく……中を覗こうとした途端扉が閉じた。まるで中から引っ張るみたいに……
私は怖くなって2、3歩さがり引き返そうと背を向ける。
……また、ギィーと音がした。
……身体が強張る。
頭の中で振り返らずこのまま立ち去る事を進める自分と、不思議な現象を知りたいという自分がいる。
……私は目を閉じ大きく深呼吸をして思い切って振り返った。
心音のスピードとは逆に足の進みはゆっくりと、そして吸い寄せられるみたいにロッカーの扉に手をかけ中を覗いた。
とても奥行きがあるみたいに見える……探ってみようと中に手を伸ばした…その途端何かに引っ張られるように引き摺りこまれてしまった。
◆◆◆◆◆
扉を開けるといつもの白い空間に出る。
中央に座り心地の良い椅子がひとつ……本当に真ん中に置いてあるのかは分からないが、何となくそう思っている。
俺はニヤケそうになるのを必死に抑え澄まし顔で腰をおろす。そして開けっ放しになっている扉を閉めようと空中に手をかざした。
「ぎゃっ!!」
扉から何か飛び出してきた。つぶれたカエルみたいな格好で倒れ、その滑稽な姿に思わず吹き出してしまった。
立ち上がり近づくと制服を着た少女で…頭でも打ったのだろうか気絶している。
その場にしゃがみ腕を指で突いてみたが反応がない。
今度は頬を突いてみた……やはり反応がない。どうしたものかと暫く落ちてきた少女を眺めていた。
このまま起きるまで寝せておこうか……それも可哀想だ。
思案しているうちイタズラ心が湧いてきて両頬を摘んで引っ張ってみた。
「プッ…」
変な顔……
つぶれたアンパンみたいな顔が可笑しくて肩を震わせた。
「……い…いだい」
眩しそうに目を開けた少女は至近距離にある俺の顔を認識すると〝先生″と言った。正確には〝しぇんせい″だ。
……頬を引っ張られているので上手く発音が出来ないらしい。
また、肩を震わせて笑った。
「はなちて…」
「面白いからもう少し見ていたいけど…解放してやる」
手を離すと少女は起き上がり両手で頬をマッサージする様に軽く押さえた。
「……所で、君は何故ここに来た」
「先生の後をつけてロッカーの中に手を伸ばしたら引き摺りこまれてここに居ます」
「……先生?……誰それ?」
「えっ?……貴方のことですけど……」
「俺?……ン?………………あぁ〜俺かぁ」
……成る程そういう事か。
1人で納得している俺を少女は胡散臭そうに見つめていた。
「しかし……残念ながら俺は君の先生ではない」
◆◆◆◆◆
何なのこいつ……私をからかっているの?
先生じゃないってそんな訳ないじゃない……古い部室のロッカーに入って行くのを見て追いかけたんだから…………ん?…違う……見てない。
……部室に入る所は見たけど先生がロッカーへ入った所は見てない……あれ?…じゃあ目の前にいる男は…………
私は穴が開くほど男の顔を見つめてみた。
うちの高校に赴任したその日から女子が〝イケメン教師″だとキャーキャー騒ぎ出し浮き足だっていたが、私には何処を見たらそうなのかサッパリ分からなかったし、興味もなかったから記憶に薄い先生だった。しかし、ついさっき廊下で声を掛けられたばかりの顔は忘れようが無い。……やっぱりあの体育教師に間違いない。どっからどう見ても本人だ。
「確かに私のクラスの先生ではないです……けど、うちの高校の体育教師…えっ…と……名前は…なんだったかなぁ……」
男は面倒くさそうに顔の前で虫でも払うみたいに手を動かし、ポツンと置いてある椅子に腰をおろし足を組んだ。
「説明はいいよ…名前も…了解したから」
とてもムカつく態度に自分を否定されたように感じて偉そうに座っている男を睨めつけた。
「じゃあ、高校の教師だって認めるんですね」
「はあ?そんなこと言ってない」
「今、了解したって……」
「君は馬鹿か?……君が言わんとする事を読みとっただけの意味で了解と言った。教師だと認めた訳じゃない」
馬鹿と言われ私はますます腹が立ってきた。
「じゃあ、誰!」
男は組んだ足を外し上体を前傾させてニヤリとした。
「俺の名前は〝ケイ″……パラレルワールドの入り口の番人」