8話 是人の不穏
『父さん。目が治ったら、ボクは父さんみたいな研究者になれるかな?』
右目に眼帯をした子どもが白衣の男性に抱きついている。
幸せそうな顔をして、少年は抱きしめてくれる父の腕に擦り寄った。
『ああ、なれるよ。……父さんなんかよりもずっとずっと、立派な研究者に』
懐かしい夢。
それは眠りの最中に垣間見た夢であり、桐ヶ谷是人の過去の断片であった。
桐ヶ谷是人は目を覚ます。鼻に届く香りも、視界に広がる天井の色も、すべて昨日の自室と変わりない。
体を起こして、是人は久々に見た夢を思い返す。
大好きな父親――けれど彼にはもう夢の中でしか会うことが叶わない。
桐ヶ谷是人は閉じた右瞼を摩りながら、棚に飾られた家族写真に左目の視線をくれる。
記憶に残る父の姿はいつも真白。白衣に身を包む姿しか見たことがない。
父のことを思うと、右目が痛む。実際に痛みが走るわけではなく、それは心の問題であることも是人は理解していた。
父がずっと心配していた右目は、もう是人の命を脅かすこともない。父のおかげで是人はその目に美しい世界を映し出しているのだから。
「あっはは……懐かしいな。……本当」
あれからもう3年。
久しぶりに見た父の夢。しばらく見ることのなかったその夢を見てしまうほどに、是人の心は揺れていた。
是人は枕の下から、傷のついたスマートフォンを取り出す。
電源を入れることはできるが、液晶をタッチしてもまったく反応しない。
壊れたそれは、液晶を照らして昨晩【乙幡くるみ】からの着信があった事実を告げるだけ。
「……どうして」
それは昨日とある場所で拾った、壊れたスマートフォン。
その機種のものを持っている人は世の中にごまんと居る。
けれど是人の頭に持ち主が誰かという疑問はない。
是人にとってそのスマートフォンが誰のものであるかを知ることは容易であった。
持ち主の親友である、彼にとっては。
「――宮路」
◇◆◇
是人は欠伸をしながら神楽坂高校へと向かう。
寝覚めの悪い朝。けれども是人は自分の口角をニッと押し上げ、ステップを踏むように学校への道のりを歩いた。
『最近連続的に起きている未成年者殺人事件についてってことだけど、うーん、本当最近多いよねぇ。えっと……? ネットでは犯人集団のことを《ミスト》と呼んでいるらしい、って。へぇ……ミストかぁ。姫川さん知ってた?』
『はい、ネットでよく見ます。ミスト……霧って意味ですよね? その言葉のとおりって感じがしてなんだか不気味です』
街の大画面には朝のバラエティー番組が映し出されている。聞こうと意識したわけでもなく、それは自然に是人の耳に入り込んできた。
設置された大画面を見上げれば業界の《大御所》とも呼ばれる芸能人と、ゲストとして呼ばれた若手人気女優が会釈を交えて話している。
『遺体として発見されている未成年者は身元不明ということだし、本当不気味だよね。姫川さんもまだ未成年だっけ?』
『はい。といっても、もう19歳ですけど』
『うわぁ、若い。いいなぁ……でも、今はこんな感じで危ないから気をつけないといけないよ? みなさんも、夜はくれぐれも注意してください。あ、姫川さんから宣伝があるみたいだね』
『はい! わたしが出演させていただいている……』
簡単に終わりを告げたニュース。
もし彼らが当事者だったとして、その未成年者が自分たちの家族や友人であったとして、彼らは今みたく淡々と話を切り上げられるのだろうか。
犯人が分からないから、霧のように掴めない相手だから『ミスト』と呼んでいる。それがまるで上手い話みたいな、そんな話には至らないだろう。
「不気味なのは、どっちだろうな」
是人は白いイヤホンを耳にあてる。
犯人を見つけられない警察が悪い。たしかにそう。けれども是人には、そう口にすることができない。
彼もまた現実の《裏側》を知る人間の1人であった。
◇◆◇
しばらく歩いて、神楽坂高校が近くに見え始める。
見えたからといってどうするわけでもない。けれども校門の近くにその姿を見かけ、是人はイヤホンを耳から取り去った。
駆ける足は踊っている。
「みーなみっ、はよ!」
長い髪を揺らす女生徒に、是人は後ろから声をかける。ポスッと肩に手を当てると、可憐な顔がこちらを向いた。
「あ、是人。……おはよ」
右手をブレザーのポケットに直して、綾瀬皆実が薄く笑む。少しだけ眠気を感じさせる彼女の顔はそれでも美しい。むしろ眠気を帯びて、普段とはまた別な美しさを感じさせる。
「眠そうだな。夜更かし?」
「うん、ちょっと」
「俺のこと考えて?」
「あはは! 是人おもしろーい」
皆実は目を細め、抑揚のない声で答える。そんな反応も可愛らしいと思うのは、是人の盲目的な恋心が一因であるだろう。
しかし、彼女の姿はどの動作をとってみても美しく見え、周囲の異性を魅了してしまう。
それゆえに同性からの彼女への視線が厳しいことも事実。皆実のほうもその視線には慣れているらしく、淡々と割り切っているようだった。
「皆実は今日も可愛いな」
「朝から告白? 断るけどいい?」
「断るって口にしてから許可とるなよ」
是人が眉を下げ困り顔を示すと、皆実は楽しげにあははっと笑い声をあげる。
出会って1年。初対面で告白したときは呆気なく振られた。
今となって是人に分かるのは、あの日の是人の告白を皆実は真剣に聞くことすらしていなかった、ということだ。
どういうわけか、皆実は告白に対する態度が冷め過ぎている。是人から見ても《かっこいい》男子からの告白にも、皆実は無関心。告白をされ過ぎてウンザリしているのかもしれないが、それにしても彼女の恋愛観は変わっている。
そういうことを理解しながらゆっくりと歩み寄った。
その結果として、今は皆実も是人の気持ちを理解している。
それで何が変わったかと聞かれれば、こんなふうに告白を冗談として笑いあえるようになったことくらいだ。
「なぁ、皆実。俺たち、いつ付き合うと思う?」
「そうだねぇ。3回くらい生まれ変われば付き合ってるかもしれないね」
「一生ないってことかよ!」
「そういうことーっ」
皆実は風になびく髪を耳にかける。その仕草もやはり綺麗だ。
艶やかな髪の毛、垣間見える首筋は透き通るように白くて、是人の心をざわつかせる。
是人の不安な心はずっと確かな居場所を求めて、縋るように皆実の心に手を伸ばしていた。
皆実にそばにいてほしい。皆実が欲しい。
「……あぁー、でも」
風に流れるような柔らかい皆実の声。
皆実は是人のことをどう思って、その目に映しているのだろう。
そんな是人の疑問も、気持ちも皆実はすべて知っている。知った上で彼女は是人の思考も理性も簡単に奪うのだ。
「わたし、是人に彼女ができるのは嫌だよ」
皆実はずるい。そんな不確かな言葉も是人は信じるしかない。信じたいと思ってしまう。
皆実はこんなにも是人の心を掴んで離さない。
薄く笑う皆実が綺麗で、是人はどうしようもなく彼女に惹かれていた。
「皆実、それほんと?」
「んー、何が?」
「そこ、とぼけるなよ」
「とぼけてないもーん」
あははっと軽快に笑う皆実に、思わず顔がにやけてしまう。
皆実の独占欲が自分に向いてるという、たったそれだけで十分すぎるほど是人は嬉しかった。
一歩ずつ、たしかに皆実のもとへ歩み寄れているのだと。
寝覚めの悪い朝――それを吹き飛ばすように皆実の言葉一つで是人の心が躍った。
「是人くん、皆実ちゃん、おはよ!」
けれどその幸福も一瞬にして終わる。
背後から聞こえるさらさらな高い声。駆け寄る女生徒の姿は、容易に是人を現実へ引き戻した。
「くるみちゃん、おっはよー。……あれ? 橘は?」
皆実の不思議そうな声。
それを聞いて、是人も後ろを振り返る。
そこにはショートボブの髪を揺らす、乙幡くるみだけが立っていた。
「……はよ。宮路は寝坊か? あっはは!」
いつものように冗談めかして言ってみる。
くるみの表情が少しだけ曇って、是人の額には汗が滲んだ。
「それが――風邪だって」
「え?」
是人の口からはマヌケな声が漏れた。
くるみがどうやってその情報を知ったのか気になって、是人は続けて問いかける。
「夜中にメッセージが届いてて」
「宮路から?」
「うん。是人くんにはまだメッセージ来てない? 昨日ね、ミヤくんスマホを落としちゃって。探しても見つからなくて、とりあえず新しいの買ったんだって」
そう言ってくるみは今朝届いていたらしい宮路からのメッセージを是人に見せてくれた。
受信時刻を見ると、彼女の言う通り、朝方に近い『夜中』の時刻だ。
《くる、おはよ。昨日電話できなくてごめん。結局スマホ見つからなくて、とりあえず新しいの買った。……で、そんなことしてたら風邪ひいたみたい。しばらく学校休む。ごめんな 宮路》
宮路らしい絵文字も顔文字もない文章。
是人はそれを見て、フッと小さく息を吐いた。
「マジかよ。あいつ金持ちだからなー! とりあえずで新しいの買っちゃうとかすげーよ」
「あはは。でも、ないと困るものだから」
「そうだなぁ。くるみと連絡とれないもんなぁ」
是人はいつもの調子で、くるみを茶化す。是人の言葉を聞いて、くるみは可愛らしく頬を染めた。
「スマホ……壊れて見つからないのかもな」
「あぁー、そうかもね」
皆実が是人の意見に同調する。呟くようにして放たれた是人の言葉を皆実が本当の意味で理解したとは思わない。
「くるみちゃんとのデートに浮かれて落としちゃったんだ?」
「ち、違うよ。昨日は本当に写真撮っただけだから」
「ほぉ?」
皆実は楽しげに目を細めて、くるみに昨日のデートの会話を振っていた。初々しい反応をするくるみは是人から見ても可愛い。無論、からかう皆実のほうが是人の目を惹くのだが。
「くるみちゃん、橘とどこに写真撮りに行ったの?」
「えっと……23区の教会、わかる?」
くるみが皆実の質問に答えた。是人が聞きたかった質問を皆実がして、聞きたかった答えをくるみが返してくれた。
瞬間、是人の心の霧が晴れていく。
「えぇ、あんな不気味なところに? でもそういえばテーマも不気味だったね」
皆実はそう言って「なんか呪われたんじゃない?」などと物騒な言葉を付け加える。そんな皆実の面白くない冗談に、くるみは苦笑するだけだ。
「にしても風邪かぁー。橘、頭いいもんね。さっすがぁ」
皆実はそんなのんきなことを口にして、あははと笑う。『バカは風邪をひかない』の言葉通り『秀才は風邪をひいた』のだから愉快といえば愉快だ。
楽しげな皆実の姿を見て、是人の張り詰めていた何かが解けた。
「本当な! お見舞いでも行くか?」
「あ……ミヤくんね、家に誰もいないから、今は親戚の家に行ってるって」
「えぇっ、マジかよ。ああ、そうだ。あいつの家、でかいけど家政婦さんいないんだった」
是人は思い出した宮路の家庭事情を口にする。
中2にあがる少し前、是人は宮路の家で少しだけ世話になったことがある。
豪邸と称して間違いない立派な家の中に、宮路と彼の父親しか住んでいなかった。
「治ってから、お見舞い代わりに遊びに行く、とかでいいじゃん。あ、でも橘はくるみちゃんとデートのほうが喜ぶかぁ」
皆実は薄く笑んで首を傾ける。恥じらうくるみは「もう、皆実ちゃんは」と頬を染めていた。
是人はそんな女子2人の会話を微笑ましく見つめるのみ。
ステップを踏むようにして学校の門をくぐった是人は、体を半回転させて2人の方を振り返った。
「にしても、この季節の風邪は厄介だし! 宮路のやつ、早く治るといいな」
「橘が来ないまま長期連休に入っちゃったりしてね」
季節は春から夏へと向かう4月の終わり。
まだ少し冷たい風が駆け抜ける卯月の頃。
「ははっ、それ皆実の願望だろ」
「ばれたぁ? 橘ってば、すーぐわたしのことバカにするんだもん」
「で、でもなんだかんだ言っても、ミヤくんは皆実ちゃんのこと大好きだから」
「えぇー? ないない。あいつくるみちゃん一筋だから」
「俺は皆実一筋」
「え? あぁー聞いてないない」
「ひっでー。あっはは!」
笑う是人の、ブレザーのポケットが震える。
是人はすぐにスマートフォンを左手に持った。
液晶にはメッセージ受信の知らせ。相手は電話帳登録外。名前ではなく、アドレスが示されている。
メッセージを開くと、件名には《橘宮路》と無愛想に一言。
「あ……」
《スマホ壊れて買い換えた。詳しくはくるに聞いて》
思わず笑ってしまう。
宮路は昨日と変わらない。風邪をひいてもいつも通りの宮路だ。
昨日からずっと危惧していたことは、やはり是人の考えすぎだった。
「橘から?」
「ああ……やっと届いた」
「えぇー。わたしにはいまだに来ないんだけど!」
皆実がプゥッと頬を膨らませる。
その仕草はどうしようもなく可愛くて、是人の心はもうすっかり晴れていた。
「そのうち来るだろ。俺たち仲良しなんだからさ」
変わりゆく季節の中。
行き交う人の気持ちは変わらないと、本気で是人は信じていた。