7話 主従
真っ白な部屋。どこを見ても、どこまでもどこまでも、そこは穢れのない純白の世界。
浮き彫りにされるように、穢れているのは自分だけだった。
『皆実……顔色悪いよ』
限界まで血を抜かれた体は少しばかり与えられた血液では到底足りない。体が気怠く、思考もうまく働いてはいなかった。これがバケモノの不必要な暴走を抑制するための手段であることも、こんな生活を5年続けていれば理解できた。
『まだ血が足りてないんじゃない?』
皆実のことを心配し、そう問いかけてくる隣の少年は右眼の眼帯を血で濡らしていた。
『――のほうこそ、目痛いでしょ』
『もう慣れたよ。ほとんど痛みも感じないんだ』
こんな狂った生活で体はその異能を除いてもすでに狂っていた。少年は優しく微笑んで、徐に眼帯を取り去る。そうすれば、血を流す赤い瞳が皆実の目に映り込んだ。
『どうせ流れるものだから、皆実が飲んで』
皆実は彼の肩に手をかけ、彼の閉じた瞼にキスをする。そうしてすくい上げるように彼の瞳から流れる血を飲んでいた。
◇◆◇
綾瀬皆実は重たい瞼を開けた。視界に映るその空間は、記憶に残る真白な部屋とは対照的な暗い部屋。自らが横たわる簡易ベッド、少し視線を動かせば種々の薬物が入った棚が多く目に映る。医務室のようなその場所がどこであるか、頭はすぐに認識した。
体を動かそうとするけれど、自分の頭で描いた運動を体が拒んでいる。四肢の感覚がほとんど失われていた。
「……っ」
血の足りない感覚も、気怠い体も慣れたもの。
けれど意識を失くしてしまうほどの反動を得るのは久しぶりだった。心臓の動きは鈍くなって、このまま止まってしまってもおかしくはない。
そんなことを冷静に自覚しつつ天井を見つめる。そんな皆実の耳に、男の静かな声が聞こえた。
「目、覚めた?」
ベッドの縁に腰かける人影。視線を少し下げて、斜め前方に座る黒髪の男の姿を視界に捉える。
簡易ベッドの軋む音。
暗闇が似合うその男、世良郁也が薄く笑って皆実のことを見下ろしていた。
「気分はどう? ……っははは。最悪に決まってるか。九条君からもらった気休めの血液製剤が5粒だっけ? 飢えを凌ぐには到底足りないね」
皆実の長い髪に触れ、世良郁也は嘲笑うような声を漏らす。皆実の不調を分かっていて、あえてこの男は皆実に血を与えていないのだ。
「いく、やさん……。……たち、ばな……は?」
掠れる声。やっとのことで出した声はか細く、その声で紡がれた名を聞いて郁也は笑い声をあげた。
「自分だって死にかけてるくせに、橘君の心配するんだ? 長く一緒にいすぎて情でも湧いた?」
「そんなんじゃ、ない……です」
「へぇ、そう」
郁也は皆実の言葉など全く信じていないみたいに、適当に返事を残す。そうしてパーカーのポケットからアーミーナイフを取り出した。
「橘君なら、九条君と一緒に拷問部屋にいるよ」
その部屋の名を聞いて皆実の表情が微かに強張る。橘宮路が置かれている立場を考えればそれは当然の処遇。けれども顔を顰めてしまう皆実を見て郁也は目を細めた。
「橘君に情も感じず、ちゃんとここまで連れてきた君の行いを、俺は主導者として褒めてあげるよ。……たとえ動揺して橘君を殺そうとしたとしても、結果として選択された事実は君が橘君を殺さずにここへ連れてきたってことだからね」
郁也は全部知っている。一連の出来事を九条がすべて伝えたのだろう。けれど九条が伝えなくてもこの男なら全部見透かしている気がした。
横たわる皆実の上へ覆いかぶさるようにして郁也はベッドに四つん這いになる。その手にアーミーナイフを携えたまま、郁也は抵抗できない皆実の体を力で抑えつけた。
両手をベッドへと縫い付けられた皆実に抵抗の手段はない。元よりそうする気もなく、皆実はただ真っ直ぐ、郁也の整った顔を見つめていた。
「優秀、優秀。……愛する男を守るために、大切な友人を苦しめることさえ厭わない。そういう切り捨ての選択は大切だと思うよ、今後もね。ああ……君にとって橘君は『大切な友人』ですらないから今の言葉は関係ないか。っははは」
郁也の言葉は間違いではなかった。皆実が手にした選択はそのとおりで、皆実にとって橘宮路はただの《観察対象》でしかなかった。
それなのに、胸が締め付けられる。血の足りない体が苦しいだけだと言い聞かせても、全部否定されるだけ。皆実の愚かな感情をすべて見透かして、郁也が嘲笑うように笑っている。
「それで……たち、ばなは……アル、デンテと……」
「アルデンテのことは知らないだろうね。あの歳の子で、日常を平穏に過ごしてきた普通の人間なら……指の骨を3本くらい折ればだいたい白状するよ。俺の知る限りではね。まあ……アルデンテの幹部クラスの子なら話は別だけど」
拷問の結果を郁也は嬉々として語る。彼という男は憶測のまま事を終わらせる人間ではない。橘宮路がアルデンテという組織の幹部である可能性があるなら、それがたとえ極僅かな可能性であっても捨て置かない。
皆実は分かっていた。橘宮路が受けた拷問は今郁也が述べたものとは違う。そんな生温いものではなく、それよりもはるかに酷くて辛くて痛くて――。
「結論、橘君は無関係。九条君の話も参考にしたけど、彼はアルデンテの連中に殺されかけたようだし。橘君とアルデンテの直接的な関係は考えられない。……今回襲われたのは偶然か、あるいは父親への脅しかな。それにしても何も知らないなんて……親子仲が悪いってのは本当だったんだね。まあ、それもそうかな」
「じゃ……あ、たちばな、は……もう」
「殺さないよ」
郁也の静かな声は皆実の青白い顔を絶望の色に変える。
「橘君は殺さない」
郁也はもう一度はっきりと告げてきた。
見下ろす郁也の瞳には、無様に揺れる皆実の瞳が映っている。
宮路の無関係が確認された。それはつまり、もう彼に「用は無い」ということ。皆実の《監視》もこれで終わり。宮路はここで死んで、これ以上の苦しみを味わう必要はない――はずだった。
「い、くやさ……っ」
「情はないって言ったよね? 皆実」
皆実は自分の発言に首を絞められる。
「橘君は殺さないよ。彼の父親が橘昂揚氏である以上、彼は使える。彼自身がアルデンテと無関係であっても、不必要にはならない。……利用できるものは利用する。分かってるだろ?」
郁也の嘲笑は止まない。その頭では今もずっと最も残酷で最も効果的な策が練られているのだろう。
本来最善策とは最も苦痛が少なく最大限の効果を得られるものであるべきだ。
けれど彼にとってそれは「最善策」ではなく「逃げ道」。人間は最も残酷な状況下でのみ最良の選択ができる。それが彼の自論だ。
それを皆実は嫌になるくらい分かっていて、それが間違いでないこともその身をもって理解していた。
郁也は目を細めたまま皆実の体を自由にする。郁也の拘束が解けたところで皆実の体は動くこともできない。郁也は右手に持つアーミーナイフを手のひらで器用に回した。
「でも橘君は頭がいいからね。俺たちの仲間になることを嫌がるだろう――から」
回したナイフの先が皆実の首に触れる。軽く刃先の触れた首筋からは微かに血が滲んだ。その極微量の血さえ今の皆実にとっては必要不可欠な血液だった。
「う……っ」
「君が説得してごらん。嘘でも《友達》だったんだから。……できるよね? ああ、そうだ。いっそ君がボロボロにしてあげればいいよ。彼を壊してしまうくらいズタズタにして……そうして恨まれればいい。その恨みや憎しみが、彼を生かすよ」
郁也の極言を、もう何百回も聞いてきた。
あの日郁也に助けられたことを、皆実はずっと後悔している。
「なんて綺麗な《友情》だろうね。殺すよりよっぽどいい。……ああ……ごめん。皆実は橘君のことを友達と思ってないんだった。でも……それなら、余計にどっちでもいいだろ?」
後悔しているのに、心の奥底ではずっと感謝している。
死んだほうがよかった。何度もそう思って、でもそのたびに首を横に振った。
広い広い、この世界には可能性が溢れているから。
いつかまた『彼』とただ単純に星空を見上げて笑う、そんな日がくることを皆実はずっと信じてる。
血が足りない――こんなバケモノみたいな体もいつか、いつか元に戻ると。『彼』とまた、絵本を読んで笑う日がくると――。
「君が他の男のために血を流して……そうして死にかけた。そう聞いたら『彼』はどう思うだろうね。平気なふりして笑うのは得意だろうけど」
ド、クン――心臓の音が跳ね上がる。
皆実の弱点を突く郁也の顔は、いつだって楽しげで、嫌になるほど綺麗な笑顔を貼り付ける。皆実が1番傷つく方法を、言葉を選んで笑っている。
それでも逆らうことのできない、皆実は自分の弱さを知っていた。
「血が……、血……が、……ち……」
皆実の瞳が赤く染まる。郁也に縋るようにして、皆実は足りない血液を求めた。相手を選ぶことさえできないほど、反動の吸血衝動は醜くも激しい。
郁也の胸に手を伸ばす。浅ましい皆実の姿を見て、郁也は声をあげて笑った。
「あげるよ。『彼』の血じゃなく、俺の血をね」
郁也は自分の血であることを強調し、黒のパーカーに隠れた白い腕をさらけ出す。すでに何ヶ所か刻まれたリストカットの痕に重ねて、郁也はアーミーナイフで更なる傷を創った。
その傷痕はすべて皆実のためのもの。
皆実が口にする血――それはたしかに世良郁也に傷を与えて得たもの。
憎くて、憎くて、それでも世良郁也は皆実の命の恩人なのだ。
「いく、やさん……っ」
郁也は口に含んだ自らの血を口移しで皆実に飲ませる。唇から漏れる血は口端から滴り落ちて首筋をなぞった。その首筋に落ちる血もすべて舐めあげて郁也は皆実に全部飲ませた。
まるで水を与えられた草木のように、血を与えられた体は気怠さを失くして力を取り戻す。体が自分の思い通りに動くようになったのを感じて、皆実の頬を涙がつたった。
バケモノに成り果ててもなお、誰かに助けてもらわなければ生きることさえできない非力な体。そんな現実を皆実はただ嘆くことしかできない。
「ごめ……なさい」
正直、誰に謝っているのか皆実にもよく分からなかった。その謝罪は、郁也に血を流させてしまったことに対してだったのかもしれないし、『彼』ではない相手から血をもらってしまったことに対してだったのかもしれない。
「罪悪感なんてものは消えることなく募るだけだろ。……だからいい加減認めれば?」
こだわっていても意味がないことくらい分かっている。募る罪悪感に終わりがないことも理解している。認めざるを得ない。どんなに拒絶してもそれが事実。
それでも捨てないのは皆実の自己満足でしかない。
この罪悪感は、皆実が『彼』を想う証のようなものだから。身体は囚われても心だけは囚われない、と。
「認めなよ。もう君は俺のものなんだってさ。じゃないと……いつかその罪悪感で、君が死ぬよ? っははは」
軋むベッドの音。
本当に『もの』でしかない。
利用されるだけの運命に、それでも立ち向かい続けること。
大切な人を守るために、それが綾瀬皆実に許された、たった一つの生き方だった。