3話 夕暮れの裏側
※視点と場面が少し変わります
帝都20区、中心区とも呼ばれるその街にいくつも並ぶ高層マンション。その一角にあるマンションの12階の部屋から、黒髪の男が街を見下ろしていた。
「……うん。そう。……じゃあ引き続き、よろしく。……次ももちろん彼女が向かうけど? っははは。君が一番危ない立場にいるのに、人の心配してる場合? それじゃあね」
電話相手に向かって呆れるような笑いをこぼし、その男、世良郁也は電話を切る。
黒髪に映える白い肌はまるで日光に当たっている姿を思わせない。それでも病的には見えず、ただひたすらに彼の姿は美しい。
郁也は通話の終えた携帯を操作し、電話帳を開いて今度は別の人物へと電話していた。
「あ、もしもし? 俺だけど。もう授業終わったでしょ? うん。放課後、そこで待機して23区に向かって。うん、もちろん。一緒に行って」
電話を終えて、郁也は2人分の通話履歴を消去する。そして携帯を黒地のジーンズのポケットに直し、そのまま部屋を出て行った。
自室から出て、リビングに戻るとソファーに彼の親友が座って待っていた。
「電話、もう大丈夫? 用事があるならまた別の日にするけど」
「大丈夫だよ。そっちのほうが断然忙しいんだから、蒼が来てくれた日くらい予定は全部あける」
郁也は親友である相馬蒼に答えながら、テーブルの上に置いてある自らの空のコップを取り上げ、冷蔵庫へと向かった。
冷蔵庫から紙パックのアイスコーヒーを取り出して、十分量をとぽとぽと抜けた音を立てながら注ぐ。
「郁也は最近どう? ああ、そうだ……同棲はうまくいってる?」
「その言い方は語弊があると思うけど。それなりにうまくやってるよ」
コップを持って、蒼の向かい側のソファーに座る。郁也と蒼は互いに今年で28歳を迎える男性だ。結婚するにはちょうどいい年齢なのだが、2人とも結婚はおろか恋人すらいない。
「郁也が保護者かぁ。世話をしてもらってるのはどっちかな」
「なにそれ。下ネタ?」
「もし下ネタとして成立するなら犯罪だよ、郁也」
そんな笑い話をして、2人は穏やかな時間を過ごす。
もしこれが蒼ではなく、それなりに面識のある誰かだとすれば、郁也と彼が保護する子の関係をこんなふうに冗談として笑い飛ばすことはできないだろう。郁也と彼女の関係は普通の保護者と被保護者の関係とは少しだけ違っていた。
「家出する場所を間違えたと思ってるだろうね」
「っははは。思ってるなら出て行ってるだろ。こんな立地のいいマンションに住んで、むしろ居心地はよさそうだけど」
「惚気かい?」
「もしそれが惚気なら犯罪、じゃなかった?」
蒼の言葉を真似て郁也がそんなふうに言うと、蒼は「そのとおり」と言って笑った。そうして郁也は一口コーヒーを飲むと、今度は蒼の話へと話題を切り替える。
「蒼は? 最近忙しいんじゃない? ニュースを見る限り変死体が多そうだけど」
「そうだよ。おかげで僕の研究室はいっぱいいっぱいさ」
蒼はやれやれといった様子で首を横に振った。蒼は帝都大学の医学部を卒業し、そのまま法医学の研究室で仕事をしている。仕事内容はもちろん、変死体の死因を判定するというもの。
最近流れるニュースでは身元不明の少年少女を狙った殺人事件が多い。死因を調べなければならないのだから、蒼たち法医学者の出番ということだ。
「最近あがってる若い子の死体に関しては銃殺がほとんどだね。集団殺人だって僕は考えてる」
「どうして?」
「銃創が違うんだよ」
蒼はそう言って右手で銃の形を作り、郁也へと向ける。その右手の人差し指が示す先は郁也の心臓だ。
「一発、綺麗に心臓を的確に撃ち抜かれている死体と、複数撃ち抜かれて失血死している死体があるんだ。おそらく前者と後者で犯人は違う。殺人の趣向が違うというべきかな。そんな感じがするよ」
専門家の顔をした蒼が詳しく説明する。物騒な話ではあるが、専門の話でもあるため蒼の声音は少しだけ生き生きとしていた。
「しかもね、死体を残さない殺しもあるんだ」
「……は?」
「肉の破片と、血液だけがその場にある。部屋の中をまったく壊すことなく、遺体だけダイナマイトでぶちまけたように粉々にしてるんだ。……とても人間業じゃない」
その人間業ではない殺人様式が、さらに警察の捜査を難航させているようだ。逆に蒼のような学者は「どうやって」という疑問と好奇心から離れられない。
「同じ集団の犯行だってことは分かるんだけどね。巧妙に警察の手をすり抜けてる。そろそろ郁也のところにも依頼が来るかもしれないね」
「警察が使えないからって俺のところに来ても、そんな霧みたいな相手を掴むなんて流石に無理だよ」
郁也は肩を竦める。郁也は探偵だ。それはあくまで自称であり、他人から見て些か疑問が残る生業であるのは否定できない。たくさんの情報ルーツを持っていて、それをもとに依頼があればその依頼をこなし、情報だけを渡す場合もある。簡単な仕事ではないが、それを成功させたために郁也はこうしていい暮らしをしているのだ。
ちなみに郁也の持っている情報ルーツの1つが月に1、2度会う蒼とのこういう会話であったりもする。
「僕の仕事は減ることになるけど……こんな物騒な事件、長く続いてほしくはないね。……狙われている子の年齢からして、あの子も危ないよ」
「……ああ」
郁也は少しだけ視線を落として蒼の忠告を聞いた。
元気のない郁也の反応を見て、蒼は困ったように笑うと、自分の手元にあるコップの中身を一気に口の中に流し込んだ。
「……ふぅ。郁也と話してスッキリしたから、そろそろ僕は仕事に戻るよ」
「ああ、忙しいのに来てくれてありがとう」
蒼が立ち上がったのを見て、郁也もすぐに立ち上がる。郁也に玄関まで見送られると、蒼は真剣な顔をして郁也のほうを振り返った。
腕を組んで壁に左肩を預けたまま郁也は蒼の視線に応える。
「……一連の事件は、十年前の事件に関係あると思う?」
静かな問いかけ。蒼の声にさっきの活力はない。少しの哀愁を感じさせる蒼の言葉に、郁也は薄く笑った。
「どんな事件も全部、関係あると思ってるよ。だから……こんな人を疑ってばかりの仕事してるんだろ?」
郁也は視線を下げたまま、自嘲気味に笑って答える。その答えを聞いた蒼もまた申し訳なさそうにして、郁也と同様に視線を下げた。
「……ごめんね」
蒼は静かに謝って、玄関の細長いドアノブに手をかける。ノブを下げた蒼に、郁也はもう一度だけ声をかけた。
「蒼。……郊外には気をつけなよ。北側ばかりじゃなくて、南側にも」
郁也が蒼にそんな忠告をした、午後4時のこと。
◇◆◇
神楽坂高校の屋上。夕暮れ時、赤く染まる空を見つめる男女がそこにいる。
深紅の制服は夕日に染まって橙色に映って見えた。
「お前……本当に行くの?」
男子生徒が女生徒に尋ねる。すると尋ねられた女生徒はあははと乾いた笑い声を漏らした。
「拒否権なんてないでしょ? よりにもよってあそこかーとは思うけど」
風に揺れる茶色の髪を耳にかけ、整った顔を露わにする。儚げに笑う彼女の顔は綺麗な夕日とあいまって、絵に写したくなるほどに美しい。
「23区……緋の教会か」
「3年前と同じように、また神を血で染めるだけだよ」
「あそこに神は存在しないんじゃなかったのか?」
男子生徒の問いかけに、女生徒は再びあははと笑う。今度は少しだけ愉快そうな声音で笑っていた。
「そうだった。3年経って、すっかり平和ボケだね」
「平和でもなかっただろ」
男子生徒は体を翻し、手すりに背を預ける。女生徒のほうは手すりに肘をついて生徒たちが賑わう校庭を見下ろしていた。
「十分平和だよ。あのころに比べたら」
彼らの前に広がる現実は、今ですら平和から程遠いところにある。それでもそんな現実を『平和』と告げられるほどに、彼女が過去に見てきた現実は残酷だった。
「大切な人を守れる現実は、少なくとも平和だよ」
女生徒の静かな声が校舎に反射してわずかに大きく響き渡る。
時刻は午後5時を回ろうとしていた。彼らはそろそろこの場所から動かなければならない。
「じゃあ……先に行く」
先に手すりから体を離したのは男子生徒のほう。その場を去る男子生徒に女生徒は目もくれない。
ガチャンと大きな音を立てて閉じる扉。1人になった女生徒はクスリと笑って、長い赤茶色の髪を揺らす。
「明日また……この景色を見られますように」
そう呟いて、綾瀬皆実はまだしばらく平和な校庭を見守っていた。