2話 4人の行先
過去は変わらない。忘れることもできない。
ずっと分かっていた。
幸せな現実は、所詮嘘で塗り固められた虚構である、と。
『こんな……はず、じゃ……』
手にしていたフルーツナイフがどうしてどうして母親の胸に突き刺さっているのだろう。
『あ、……あ、う、あ、あぁぁああああああ!』
いつだって日常が壊れる瞬間は何の前触れもなく訪れる。
足音も立てず、一瞬で昨日と今日の世界を変えてしまう。
そのことを橘宮路は知っているはずだった。
◇◆◇
「そうしてカトリック教会は勢力を強め、ローマ教皇はローマ皇帝を破門して権利の獲得を……」
5時限目、昼食を終えてほどよく時間が経った頃に行われる世界史の授業はとても苦痛だ。満腹感からくる睡魔は、誰もが悩まされる問題だ。
成績優秀生として知られる橘宮路は授業を聞きながらあくびを何度も噛みしめる。
「ふぁぁああ、ねむ」
そんな宮路に対して、彼の隣に座る綾瀬皆実は噛みしめることなく堂々とあくびをして目を擦っていた。眠そうな皆実の姿を横目に、宮路は肩をすくめる。
「話聞いてないと、またテストで泣くぞ」
「うーん。そうなんだけどね。橘でも眠くなる授業でわたしが眠くならないわけないよね」
小声でそんなふうに答え、皆実はテキトーに笑った。どうやら宮路があくびを噛みしめている様子を皆実はしっかり見ていたらしい。
「是人とくるみちゃんは今頃楽しい体育の授業なのにね」
うらやましそうに皆実は言う。皆実と宮路が同じクラスであるのと同様、是人とくるみも同じクラスだった。そのことで是人には幾度となく「俺とクラス代われ!」などと言われている。
「楽しいって、お前体育すらさぼってんじゃん」
「さぼってないよ。見学」
「一緒だろ。……教師に気に入られてると得だな」
「まあね。ありがたいことにこの顔は男性教師に好かれるみたいで」
自分の容姿がいいことを皆実は自覚している。皆実ほどの美少女になると変な謙遜をされるより、潔く認めてくれるほうが好感を持つことができた。
皆実は学校一の美少女といって過言ではない。そんな皆実に対して、宮路はいたって普通の容姿の人間だ。無造作な黒髪に、中性的な顔立ち。良くも悪くも特徴のない容姿で、取り柄も人より少し勉強ができるところくらい。
そんな宮路は特別な1番を持つ皆実に憧れてしまう。
けれどやはりそれを認めるのは不服で、宮路は足掻くように考えを振り払った。
「それにしても男女で体育別なのに、わたしが見学だってよく知ってたね?」
皆実に指摘を受け、宮路は肩を揺らした。男子がグラウンド授業のときは女子が体育館で授業という感じて、男子と女子は体育の授業空間が異なる。それなのに宮路は皆実の行動をしっかり把握していた。
「クラスの女子が言ってるの聞くから」
「へぇ、悪口?」
「さあな」
「そこ、私語はやめろー」
「すみませーん」
話の途中で教師からの注意を受けた。1番後ろの席で小声で話していても、これだけ会話を続けていたらさすがにバレる。しかし皆実がにっこり笑って謝れば、教師のほうもそれ以上こちらを気にしない。世界史の男性教師もまた皆実のことを気に入っているからだ。
皆実が横目にこちらを見てふふんと笑っている。きっと「気に入られてるって得だね」などと言いたいのだろう。それが腹立たしくて宮路は顔を背けた。
「以降ローマ教皇は力をつけて軍を派遣し、一時的に国を占領して……」
しばらく教師の話に耳を傾ける。すると早々に話に飽きたのだろうか。皆実はあくびを始める。相変わらず噛みしめるようなことをしないが、口に手を当てて少しの遠慮は見せていた。
「お前の興味ある話じゃないの? 宗教の話。神とか教皇とか」
「え? ああ、うん。神様の話なら興味あるよ。でもこれはさ……人間による神への冒涜行為の話だもの」
皆実は頬杖をついて黒板を見つめる。薄く笑った横顔はどこか儚く見えた。
「神の名のもとに、なんて言って行動する人は……全部神のせいにして逃げ道作ってるだけなんだよ」
「……誰も神を裁けないからってこと?」
「そう。存在しないものを誰も裁けない。だからね、そういう人たちは一見誰より神を信じているようで、誰よりも神の存在を否定してる。……って、知り合いが言ってた」
最後にそう付け加えて皆実は教科書のページをめくる。皆実にしては難しいことを言うものだと驚いていたが、やはり他人からの受け売りだった。
「意外と……橘みたいに最初から神様の存在を否定してる人のほうが、心の奥底で神様を信じてるんだって」
「かなり偏った意見だな」
けれどその理屈には言い知れない説得力がある。納得するわけではないけれど、理解できないわけでもなかった。
皆実の『知り合い』がどんな人物かは知らないが、その相手がとても思慮深い人間であることだけは分かる。
「綾瀬にそんな頭のいい知り合いがいるんだな」
「結構いるよ。ああ、周りに頭いい人が多いから、考えること少なくてバカになったのかもね」
「そこー、いい加減にしろよー」
「すみません。綾瀬さんが教皇の話がよく分からないと言ってきたので説明してました」
再び教師からの注意を受け、今度は宮路が反応する。成績優秀者である宮路に質問するのは納得らしく、すんなりと納得してくれた。やはり皆実が関与するだけで対応が甘い。
「その場で疑問を解決するのはいいことだが、分からないところは授業が終わってから先生に聞きにくること。いいな、綾瀬?」
「……はーい」
教師がうきうきした様子で皆実に告げている。その光景に薄ら笑いを浮かべる宮路を皆実が笑顔で睨んでいた。
◇◆◇
「橘はこれからくるみちゃんとデートだっけ?」
放課後、帰り支度をしながら皆実がふと思い出したように尋ねてくる。それは事実といえば事実なのだが、宮路は皆実に話した覚えがない。
「誰から聞いた」
「くるみちゃんに決まってるじゃん。昼休みに橘がジュース買いに行ってるときに聞いたよ……と、噂をすれば」
皆実はクラスの扉のほうを向いて、手をひらひらと振る。皆実の視線の先を追うようにして後ろを振り返るとくるみがクラスに来ていた。
「ミヤくん、もう終わった?」
「ああ」
肩まで伸びたふんわりと柔らかそうな髪を揺らして、くるみが宮路の席までやってくる。するとなぜか是人までクラスに登場した。
「いやぁー、今日も疲れたな! 宮路、皆実!」
くるみの後を追いかけるようにして、クラスにやってきた是人はそのまま宮路の席を通過して皆実の席の前まで足を進めてきた。
「あれ? 是人まで何しに来たの」
宮路に代わって皆実が素朴な疑問をぶつける。すると是人は大きなため息をついて皆実の肩に手を置いた。
「ひどくね? 宮路とくるみがデートだから、俺も皆実とデートしようとか考えちゃうの分かんない?」
「ごめん、分からない」
皆実は笑顔で答える。是人はまるで当然のことのようにして言うが、宮路にもその理屈は理解できなかった。
「ていうか是人、バイトあるでしょ」
「皆実がデートしてくれるなら余裕で休む!」
「しないからバイト頑張ってね」
皆実に笑顔で却下され、是人は大げさにがっかりした様子を見せる。是人のバイトはたしか、帝都の中心区にある事務所の掃除兼書棚整理だ。休もうと思えば休めるのだろうが、おそらく是人自身休む気はなかっただろう。断られることを前提で誘う意味は分からない。
「わたしたちもデートっていうか……部活の写真を撮りに行くだけだから」
「デートのついで、だろ?」
遠慮がちに告げるくるみへ、是人が茶化すような言葉をかける。
宮路とくるみは写真部に所属していて、今日は今月のテーマの写真を撮りに行く予定なのだ。といっても是人の言うとおりデートのついでに撮るというのが正しい言い方になる。けれど皆実と是人に茶化されるのは御免であるため、宮路は話題を変えようと皆実に声をかけた。
「お前も部活入れば? みんな入ってるし」
「是人も入ってないよ」
「是人にはバイトがあるから。お前暇だろ?」
「暇と忙しいだったら、わたしは暇を選ぶ人種だよ」
最初からそういう返しになるとは思っていたが、やはり宮路の提案は無駄に終わってしまう。
そうして宮路も皆実も帰り支度を済ませると、4人で一緒に教室を出て行った。
「で、お2人さん。今日はどちらでデートですかい?」
「だからデートじゃないって言ってるだろ」
階段を下りながら是人が肘をつついて聞いてくる。実際『デート』と変わりないのだが、宮路は頑なに否定していた。
「いいじゃん。面倒だからデートで。ね、くるみちゃん」
「え、えっと……うん」
皆実が同意を求めると、くるみは恥じらいながらもこくん、と頷いた。その仕草はとても女の子らしくてかわいい。そんなことを宮路が思っているとやはり皆実がそれをつついてきた。
「橘、かわいいとか思ったでしょ?」
「お前も少しはくるを見習ったら?」
皆実のからかうような視線から目をそらし、宮路はそっけなく答える。すると皆実はつまらなそうに肩をすくめて是人と同じ質問をくるみにしていた。
「テーマがね、『崩壊の美』だから……郊外にでも行ってみようかなって」
「……すごいテーマだね」
皆実が反応に困ったのと同様、宮路たちも最初に写真部で今月のテーマを発表されたときは同じように笑顔を引きつらせたものだ。去年の部長は適当で、空や海といった簡潔的で分かりやすいテーマだったのだが、今年の部長はかなりマニアックなテーマを出してくる。
中心区である18区〜21区にはあまり廃れた場所もないため、宮路とくるみは郊外に行くことにしたのだ。
しかし、くるみの話を聞いた是人が珍しく眉間にしわを寄せて真面目な顔をした。
「郊外って、最近物騒な事件多いじゃん。やめといたほうがいいんじゃねぇの?」
「たしかに。このあいだも殺人事件があったね」
忠告する是人に、皆実も同調する。
2人の言うとおり、最近は帝都の2区や3区といった郊外で殺人事件が多発しているとニュースで言っていた。それも遺体で発見されるのはちょうど宮路たちと同じ年代の少年少女が多い。
「でも危ないのは北側の2、3区周辺だろ。向こう側なんて遠いし、行かない」
我ながら安易な考え方だと思うが、危険を言い始めれば完全に安全な場所などどこにもない。
「でも、宮路……」
宮路を心配する是人はまだ何か言いたげだ。しかし、続く言葉は前方から来た人物と皆実がぶつかったことにより、飲み込まれた。
「い……っ、おぉ……」
皆実の肩と、とある男子の肩がぶつかる。相手の人物を確認して、皆実はマヌケな声をもらした。
「……悪い」
皆実がぶつかった相手は九条将貴。九条は同じ学年で、宮路たちとも是人たちともクラスの違う男子生徒だ。けれども彼は少しだけこの学校では有名人だ。
九条は静かに一言謝ると、皆実の横を通り過ぎる。そんな九条に是人だけが元気に声をかけていた。
「九条、じゃーなー!」
「……ああ」
是人の挨拶に対しても九条は一言返すだけ。そうしてさっさと階段を上り、宮路たちの前からいなくなった。
「大丈夫か? 皆実」
「うん。軽く当たっただけだから。相手が相手だから驚いちゃったけど」
是人に心配され、苦笑まじりに皆実は返す。本当に相手が相手だった。
九条将貴という黒髪の男子は少し目つきが悪いことを除いて、特に真面目とも不良とも言えない出で立ちの男子生徒だ。けれども学園内に広まる彼の噂は強烈で、過去に暴力団に所属していたために2学年分留年しているらしい。あくまで噂だが、されど噂である。何もないところからそんな話は流れない。
見た目だけで言えば、明るい髪で眉をつり上げている是人のほうが問題児に見える。といっても垂れ目を気にしてわざわざ眉をつり上げるように整えている時点で、是人に威厳も怖さもないのだが。
人当たりのいい是人でも九条とは会話が広がらないらしい。一応会話をしようと努力しているところは是人らしく、もちろん宮路は喋りかけたことなどない。
「まあ、噂ほど悪いやつでもなさそうなんだけどな」
「へぇ……そうなんだ。……って、あ」
是人と会話をしている途中で、突然思い出したように皆実が立ち止まる。
「今日提出の補習課題、まだ提出してなかった。ああ、面倒だなぁ」
皆実は大きなため息を吐く。そうして階段を下りていた足を、上がる方向へと転換した。
「皆実、俺もついていこうか?」
「職員室で捕まるかもだからいいよ。バイト遅れるといけないし」
皆実は「ありがとね」と是人に笑いかけた。その笑顔だけ見れば宮路も不服ながらかわいいと思ってしまう。是人に至っては言うまでもなくそう思っただろう。
「じゃあ、橘とくるみちゃんもバイバイ」
「皆実ちゃん、また明日」
皆実の挨拶にくるみは返すけれど、その隣にいる宮路は返さない。すると皆実は「橘」と名指しで宮路のことを呼び止めた。
「バイバイ」
「……明日」
宮路は振り返ることをしないまま、渋々といった様子でそっけなく皆実に挨拶を返す。でも皆実はそれだけで満足らしく、そのまま階段を上った。
「2人とも、一応気をつけてね」
そんな気遣いを残して、皆実は深紅のブレザーとスカートを翻した。
皆実の姿がなくなると、今度は是人のスマホがメッセージの受信を告げた。メッセージ画面を見て、是人は「やば」と声を上げる。
「バイト急がねーと! んじゃ、俺も行くわ! 2人とも本当に気をつけろよ! それじゃーなー!」
階段を飛び降りて、身軽に着地すると是人はそのまま走って校舎を出て行った。
「2人して慌ただしいな……」
嵐のように去っていった2人を思いながら、宮路は呆れるようにため息を吐く。そんな宮路を見てくるみはクスクスとかわいらしく笑っていた。
「何?」
「是人くんや皆実ちゃんといるときのミヤくんは楽しそうだから。わたしも見てて楽しくなるの」
「……何言ってんの」
はにかんで笑うくるみを見て、少し照れくさくなった宮路は彼女の髪をくしゃくしゃにするようにして撫でる。
茶化す友人もいなくなり、宮路は堂々とくるみの手を握った。
「でもミヤくん、本当にいいの? 是人くんたちが言ってたとおり、危ないかもしれないけど」
くるみは心配そうな顔をする。もともと郊外に行こうと言い出したのはくるみだった。テーマにぴったりの場所を知っているらしく、どうせならそこの写真を収めたいと宮路も思った。
「是人の言いたいことも分かるけど、そんなこと言ってたらキリないしさ。くるが言ってた場所は南側で2、3区とは真逆側だから、大丈夫だろ」
宮路が小さく笑んで伝えると、くるみは嬉しそうに頷いた。本当に行きたい場所なのだろう。くるみの顔を見ていればそれくらい分かる。
「じゃあ予定通り、行こう。23区に」
くるみと手をつないで、宮路は校舎を出て行った。それは午後4時のこと。