1話 仮初めの日常
8/6:一部プロローグの内容を挿入していますが、内容は変わりません
XX37年
漂う鉄錆の香り。
黒い羽織は質量のある液体が滲んで、色を濃くしていた。
「ふははっ、血が出てるよぉ? 血ぃ? 痛いでしょ?」
目の前でバケモノが笑っている。
ヒトの形をしたそのバケモノが言うとおり、彼女の身体からはどんどん血の気が引いていた。
「ほらぁ、もっと出してあげるよぉ。血ぃ、血ぃ、血ぃ」
バケモノの見た目は16、7歳といったところか。彼女とたいして変わらないくらいの年齢を思わせる。女の姿をしたバケモノはニタニタと笑いながらどんどんこちらの身体の肉をえぐっていた。
血がとめどなく滴り落ちる。手にしていた銃は、もう遠くに蹴り飛ばされて手元にはなかった。
「お仲間さんは別の子が相手してあげてるからぁ、あなたはあたしが殺してあげるぅ。ひゃーっははっ、あはぁぁ、汚い汚い君たちニンゲンを神の子であるあたしたちが殺してあげるんだぁ」
バケモノの手が腹をえぐって、心臓を探すように動いている。血はどんどん、どんどん流れていく。漂う鉄錆の香りは彼女のもの。
「殺してほしい? ほしいよね? 苦しいよね? ひーひっひっあっひゃひゃひゃ。でもでもぉ、もっともーっと苦しんで死ななきゃダメだよぉ。もっともっと苦しまなきゃ神の子には生まれ変われないよぉ?」
死ぬほどの苦しみを味わってもまだ足りない。バケモノの言うことなのに、嫌になるくらい理解できてしまう。神の子として育てられたバケモノは、本当に死ぬほどの苦しみを毎日毎日味わってきた。こんな苦しみでは到底足りない。
バケモノにわざわざ言われなくても、その身体がよく知っている。こんな苦しみでは足りない。だからこそこんな苦しみで、倒れはしないのだ、と。
「……っ」
「珠玉露……発動」
乱れる息を整えて精神を集中させる。振り絞ったその言葉とともに全身の血液がたぎるように疼いた。
身体にまとわりつく血が右手にどんどん集まって刀の形をなす。バケモノがそれに気づいてこの身体から飛び退こうとするが、もう遅い。
手にした血液の刀がバケモノの胸に食い込む。今度血を吐くのはバケモノのほうだった。
「……っ、あ、ひひっ、しくじっちゃ、ったなぁ、……君……も、神の子、だったの?」
「神の子じゃない。……君もね」
そう答えて、刀の血液を爆発させる。バケモノの身体は血の爆発とともに弾け飛んだ。塵と化して跡も残らない。それはまるで彼女のたどる末路を表しているみたいだった。
赤茶色の長い髪が揺れる。
えぐられた腹の傷はもう癒えていた。本来は動くこともできないはずの身体を動かして、思い知る。
「ただの……バケモノだよ。今も変わらずに」
神の子などいない。
今も昔も変わらず、彼女の身体はただのバケモノだった。
◇◆◇
「神様、仏様、お願いします!」
帝都21区にある、神楽坂高校の2年1組、窓側1列目1番後ろの席に座る女子が両手を握りしめ、懇願している。
「今願っても意味ないだろ」
その隣の席に座る男子、橘宮路はその女子に向かって冷静に指摘する。宮路には彼女の願い事がだいたい予想できていた。そしてその願い事は常に成績学年トップ5を維持している宮路には無縁の話だった。
神に懇願中の女子、綾瀬皆実はそんな宮路のことを恨めしそうに横目で見つめてくる。
「橘には分からないよ。願って叶うなら願わなきゃ損だよ。タダなんだし」
「そんな罰当たりなこと言ってると叶わないぞ」
「きゃー! 嘘です嘘です。お願いします、赤点だけは回避させてくださいー!」
皆実は再び願かけに戻る。今から始まるテスト返却に向けてそんなことを祈っているが、テストが終了した今願っても意味がないだろう。どうせ願うならテスト中にすればいいのに。そんなことを宮路が思っているとテスト返却が開始し、真っ先に皆実の名が呼ばれた。
「どうだった?」
席に戻ってきた無表情の皆実に問いかける。だいたいその表情で結果は予想できているが、あえて尋ねると皆実はハァーッとため息を吐いた。
「分かってるのに聞かないでよ。極悪非道な橘宮路くん。ほらもうすぐ君の番だよ」
皆実はプイッと顔を背けて窓の外を眺める。宮路は頬杖をついたまま、そんな皆実のことを見つめていた。
(ホント、整った顔してるな……)
皆実の横顔を見ていると、宮路の頭には自然とそんな感想が浮かぶ。別に皆実に特別な感情があるとか、そういうわけではない。たぶん男子なら、女子でもきっと同じことを思うだろう。
宮路はそんなどうでもいい言い訳をしながら、落胆しているような皆実の横顔に話しかけた。
「無駄な願い事するから、ガッカリするんだろ。最初から覚悟していけばいいのに」
宮路の指摘を聞いても、皆実はこちらを見ない。窓の外に視線を向けたまま「橘には分からないよ」ともう一度言った。
「もし願わなかったら、願ってればよかったなーって思うんだから。どっちでも変わんない。変わんないなら願ったほうがいい気がするじゃん」
いつものことなのだが、皆実の理屈は宮路には理解できない。皆実は事あるごとに「神様、お願いします」と言っている。まるで神の存在を確かめるみたいに。宮路はそんな皆実をやっぱり馬鹿だなと思う。
「神なんて、俺たちと同じように生まれた人間で、生前の位や得の高い人が祀られた姿なんだから願いを叶える力なんてない」
「頭がいい人はこれだから……言葉が難しくてわけわかんないよ。つまり何?」
「……綾瀬が思うような神はいないってこと」
神という存在はあるかもしれない。人間が崇拝すべき存在。けれどその存在は誰かの願いを叶えるための存在ではない。それが宮路の理論だ。
神はいない――そんな宮路の罰当たりな発言を皆実は笑って否定した。
「いるよ。きっとどこかに」
怒るわけでもなく、楽しそうに笑って皆実は一言で反論する。
「この世界は大きいから」
皆実がそう告げるのと同時、宮路の名前が呼ばれて宮路は解答用紙を受け取りに行く。高得点の用紙を持ち帰ってきた宮路を迎え入れて、皆実は「いいなー」とのんきに笑っていた。
◇◆◇
昼休み、1階のおしゃれなカフェテリアにはいつもの4人組でいつもの場所に集まって昼食を楽しんでいた。
「あっはは! たしかに、宮路には分かんねぇよなぁ。赤点の気持ちなんて」
桐ヶ谷是人が大きな笑い声をあげている。その笑い声を目の前で聞きながら宮路は「分かりたくもない」と冷静に答えた。
「さっすがぁー。秀才は言うこと違うよな。俺は皆実側だからよく分かるぜ」
「別に是人と一緒にされたくはないんだけど」
「ひっど!」
皆実は肩に回りかけた是人の腕を即座に払いのける。それもいつものことで是人はショックを受けたフリをするだけ。
皆実はそんな是人を放って、200ml紙パックのストレートティーを飲みながら目の前の女子、乙幡くるみに視線を向けた。
「くるみちゃん、こんなやつ別れたほうがいいよ」
皆実はストローの先をくるみに向ける形で紙パックを傾ける。愚痴に交えてそんな忠告をする皆実を宮路は顔をしかめて睨んだ。
「くるに変なこと吹き込まないでくれる?」
「事実だもん。橘、サイテー」
皆実はベーッと舌を出して宮路を非難してくる。すると宮路の隣に座るくるみがクスクスと可愛らしく笑った。
「ミヤくん、ダメだよ。皆実ちゃんにもちゃんと優しくしないと」
「……別に優しくするときはしてる」
「えぇ? いつー? いつですかー?」
くるみに言い訳程度に告げただけなのだが、宮路の発言にくるみではなく皆実が反応する。それに苛立って宮路の片眉がピクピク動くと、それを見た是人が大きな声で笑った。
「宮路はくるみには優しくしてるもんな?」
「うるさい」
「ねぇねぇくるみちゃん、橘って普段どう優しいのー?」
「え、えっと……」
「お前はホント黙れよ、綾瀬」
皆実と是人に茶化されて、宮路は面倒そうにしながら味噌汁の入った椀に手をかけた。
宮路が拗ねるのもいつものこと。だから皆実も是人も気にせず、へらへら笑っている。
「あ、皆実ちゃん。さっきクラスの子が言ってて……1年生に告白されたの?」
くるみがそんなことを尋ねる。宮路はそれを聞いて「またか」と思いながら、生姜焼きを口に運んだ。
綾瀬皆実という女子はおそらくこの学校で1番の美少女だ。少なくとも宮路はそう思っている。性格は論外だから総合すれば断然くるみのほうが可愛い、と宮路はちゃんと付け加えるのだが、顔だけ見れば悔しいことに皆実が1番だ。
そんな皆実に告白する男子は後を絶たない。だから皆実の告白話など新鮮でも何でもないのだが、この手の話になると皆実は途端に機嫌が悪くなる。
「うーん……」
例に外れることなく、皆実は気のない返事をする。さっきのノリはどうしたとツッコミたくなる衝動を抑え、宮路は皆実の様子を上目でうかがった。
ストレートティーを飲みながら、茶色の長い髪を胸のあたりでいじっている。全身から「その話に興味がない」と伝えていた。
「またかよ。誰だ? 俺の存在を知らずに、無謀にも告白したやつは!」
静かな皆実に対し、くるみの質問で是人が騒ぎ出す。最後の発言はまったくもって意味が分からない。
「無謀なのは認めるけど、是人、お前は綾瀬の彼氏じゃないだろ」
「彼氏候補ナンバー1だからな!」
「へぇ、わたしも初耳だよ。そうだったんだ?」
自信満々に言ってのける是人に、皆実が他人事のように尋ね返す。
「だって皆実が一緒にいる男子なんて俺か宮路じゃん! んで、宮路にはくるみがいるし! 消去法で俺だろ!」
「自分で消去法とか言って悲しくないのかよ」
呆れ顔の宮路にも、是人は「全然ヨユー」と笑っている。本当に是人の楽観思考は尊敬の域に達するものだ。
けれど、是人の言いたいことも分からなくはなかった。
皆実と是人は付き合っていない。事実を言えば、是人は入学して3日目に皆実に振られている。
けれど皆実が振った後も仲良くしている男子は是人だけ。実際いつも一緒にいて、付き合っているようなものだ。
「皆実ちゃん、よく告白されるのに彼氏は作らないの?」
「うーん。いらないかなぁ。ほら、彼氏面しちゃってるやつ、隣にいるし」
皆実はストレートティーを飲みながらテキトー感丸出しで答えた。けれどそれを聞いた是人は「それ俺のこと?!」などと言って嬉しそうにしている。
「やっぱりなぁ、皆実は俺がいれば十分だよなぁ」
「そうだね。うるさいのは是人だけで十分だよ」
なんだかんだ言って、お似合いな2人だと宮路は思う。是人は本気で皆実のことが好きで、皆実のほうも今は満更ではないだろう。
そんなことを思いながら2人のことを見ていると、視界の端でくるみがジッとこちらを見ていることに宮路は気がついた。
「……どうかした?」
「ううん。なんでも」
くるみは照れ臭そうに笑って唇を噛む。本当に自分には、もったいないくらい可愛い恋人だ。そう、宮路は実感していた。
「橘、鼻の下伸びてるよー。やーらしっ」
それが4人の日常。
穏やかに過ぎる、いつまでも変わらない日常。少なくとも宮路はそう思っていた。
『昨日未明、10代と思しき少年少女8人が帝都2区の廃墟地帯にて遺体として発見されました。少年少女の身元は不明であり、警察は殺人事件として捜査を――』
カフェテリアに流れる不穏なニュース。
宮路の耳にそのニュースは聞こえているのに、聞こえないふりをして楽しい会話の中に居座る。
もし本当に神がいるなら世の中のありとあらゆる理不尽を許すはずがない。
だからこの世界に神はいない。
テレビ画面に目もくれない皆実のことを見つめ、宮路は心の中で彼女の意見に反論する。
この理不尽な世界に神などいないと、橘宮路は知っていた。
それなのに、この穏やかな日々がいつまでも続くと思い込んで、のうのうと、当たり前のように仮初めの日常を過ごしていた。