僕と彼女
「どうすればあなたみたいになれる?」
唐突に聞かれた問いに、僕は口を噤んだ。
声のした方を見遣れば、高校生くらいの女の子。
長くて艶やかな黒髪が、風に吹かれて舞っている。
けれど漠然と感じる違和感に思わず凝視してしまってから、彼女の言葉の意味を考えた。
僕みたいに、なれる?
考えたものの僕はまったく問いかけの意味が分からず、持っていた手帳を閉じて身体ごと彼女に向き合った。
「どういう事、かな」
寒くて立てていたコートの衿を直してマフラーを少し下げると、小さく首を傾る。
そんな仕草に、彼女も同じ様に首を傾げて口を開いた。
「どうすれば、あなたのようになれる?」
みたいに、が、ように、に変わっただけの言葉に、思わず苦笑してしまった。
噴き出た笑いに片手で口元を押さえれば、彼女は怪訝そうな仕草でもう一度同じ言葉を口にする。
僕は仕方ないなぁとばかりに笑いかけると、手帳をコートのうちポケットにしまって右の掌で彼女を呼んだ。
「ここ、座る?」
ゆっくりと近付いてきた彼女に問えば、何も言わずにベンチに座る僕の横に腰をおろした。
うん、ちょっとくっつきすぎかな?
彼女のパーソナルスペースは、だいぶ狭いらしい。
ほぼくっついているお互いの腕の温もりに、年上だろう自分の方が困惑してしまう。
そんな僕をじっと見ていた彼女は、ぽつり、言葉を零した。
「どうしたら、笑える?」
「笑える?」
やっと意味の分かる問いになったと思ったけれど、喜べない。
なんだ、その漠然とした問題は。
「どうしたら、悲しくなる?」
「悲しく?」
重ねられた言葉は、普通に聞けばふざけているとも馬鹿にしているとも取れる問いかけで。
現に、少しムッとしてしまった僕の頬を、彼女は白い指先でつついた。
「いつも、ここで、あなたは笑っているだろう? 悲しんでいるだろう?」
つついた指先は、ゆっくりと離れて。
僕は思わず、その指先を目で追った。
ここで、僕が、笑う? 悲しむ?
その言葉に、あぁ、そうかもしれないと内心納得する。
この場所は、駅から自宅に戻る途中にある大きな公園。
周りは山裾を切り拓いてできた新興住宅地、そして学校が点在する。
右手には雑木林が続いていて、そのままハイキングでも出来そうな場所へと通じていた。
僕は、この場所が好きだった。
就職難の中、やっと見つけた営業の仕事。
読書が好きなだけの僕にとって、口と頭の回転を武器に自社の商品を薦める営業職は、性格的に厳しかった。
けれど会社を辞めても雇ってくれるところは、皆無といって等しい。
歯を食いしばって三年間、なんとか一人で回れるくらいの実力はつけたつもり。
けれど、三つ子の魂百までも。
元々の性格は、中々変わる事もなく。
仕事の帰りや休みの日に、ここに来ては頭をからっぽにしてから整理する事にしていた。
それは仕事の事でも。
プライベートの事でも。
時には本を持ってきて、のんびり読書をしたり。
仕事で嫌な事があれば、むすっとしていただろうし。
営業が上手くいけば、単純な僕は嬉しそうな顔をしていただろう。
よくここに来ていれば必然と声を掛けてくれる人もいて、そんな人には笑いかけていたかもしれない。
「僕は、君に見られていたの?」
恥ずかしい。
その思いが先に立つ。
気の抜けている自分を、知らないうちにみられていたと思えば恥ずかしさは万倍だ。
彼女はこくりと頷いて、右腕を上げた。
その指先は、住宅街の方を指していて。
「高校の帰り道に、よくあなたを見かけた」
「へぇ、高校の帰り道に……。ちょっと、待って」
彼女の言葉に、引っ掛かりを覚える。
高校の帰り道に、僕を見かけていた。
イコール平日。イコール僕は会社帰り。イコール……
「女の子が、そんなに遅くまで出歩いていたら駄目だろう。危ないじゃないか」
思わず語気を強めると、彼女の目がまんまるく見開かれる。
「なぜ、あなたが怒る? 私とあなたは、無関係の存在のはず。あなたが怒る事ではないだろう?」
淡々と語るその口調に、それはそうだけれど、と口を開く。
「それでも、危ないから。もしどうしても出歩かなきゃいけなくて、もしその時僕がいたら、家まで送ってあげるから声を掛けて?」
そこまでいって、僕の頭から血の気が引いた。
どこのおせっかい他人だよ! しかも、ナンパっぽい!
引いた血が顔に逆流して、熱くなる。
きっと、頬が赤いだろう。
二十五歳の社会人にもなって、高校生相手に何をやってるんだ。
思わず片手で口元を覆えば、不思議そうに僕を見る瞳。
ただ見つめてくるその目に、違和感をもつ。
けれどそれが何か分からなくて、僕は息を吐き出した後、念を押すように同じことを口にした。
「ごめん、確かに無関係ではあるけれど。それでも聞いてしまえば気になるから、ちゃんと声掛けて?」
あぁ、この心配性がバカを見るんだ!
今時の女子高生にしたら、ただの軟派な社会人にしか映らないんだろうな!
内心八つ当たりとも思える感情に悶えていた僕は、次に発せられた彼女の言葉に思わずあんぐりと口を開いた。
「無関係な私を心配してくれるようなあなたになるには、どうしたらいい?」
また、そこに戻った。
意味が、分からない。
まったく自分の意図したことも伝わっていないし、それ以上にこの気まずい雰囲気にも気付かれていない。
いや、後者は気付かれなくていいんだけど。反対に助かるんだけど。
僕は意識を切り替えるように一度目を瞑ると、再び開いて彼女を見た。
「どうして、僕になりたいの?」
さっきからずっと彼女が訴えかけているのは、僕のようになりたいという事。
よく分からないけど、それが分かればこの意味不明な会話も終わるのだろう。
彼女は澄んだ瞳を僕に向けて、淡々と言葉を紡ぐ。
「難しそうに何かを考える姿。楽しそうに声を掛けてきた人に返事をする姿。ガッツポーズをして、喜ぶ姿」
うん、客観的に自分の行動を指摘されると、物凄く恥ずかしいという事を知りました。
「何よりも、幸せそうな雰囲気を纏うあなたは、私にとって憧れであり不思議な生き物だ」
……褒められて、貶された?
首を傾げれば、同じ様な仕草をする彼女。
けれどその目はじっと僕を見ていて……
「あぁ」
ふと気がついて、思わず声が漏れた。
最初に声を掛けられた時から感じていた、違和感。
やっと分かった。
彼女は……
「私には、表情がないらしい」
常に、無表情だ。
さっきから、仕草だけは僕を真似たりして何かしらのアクションがあるけれど、その表情は皆無。
何も感じ取る事が出来ない。
「らしいってことは、自分では分からないの?」
他人事のように言う、その言葉に引っ掛かる。
彼女は頷くと、そうだなと目を公園の中央へと向けた。
そこには、土曜日の休み。
子供と遊ぶ、家族の姿。
「例えばあの人たちを見て、楽しそうだな、そうは思うけれど。その感情が、顔には反映されていない。指摘もされたし、事実そうなのだろう?」
最後の方は問いかけに変わっていて、どうしようかと思ったけれど頷いた。
「どこか、感情が欠落しているのは知っている。私は周りの者から与えられる感情に対しても、自分の感情に対しても、幕を張ったように鈍く曖昧にしか受け取れない」
彼女の目は、親子連れを見つめたまま。
「だから、あなたを羨ましいと思った。感情のまま、表情にだせる。幸せそうなあなたを」
「それって、単純なだけって言われてる気がするよ。それにさ、顔に出るって大人でそれは、あまりいいとは言えないと思うんだけど」
恥ずかしさ、半端ない。
そう告げれば、不思議そうに彼女の目が僕を見た。
「見かけている内にあなたの事が気になって、どうしても教えて欲しいと思った。私は、あなたのようになりたい。どうすれば、あなたみたいになれる?」
最初に告げられた、問いかけに戻った。
――感情が欠落している。
そう、彼女は言った。
生まれた初めから、感情のないヒトなんて早々いない。
と言う事は、彼女の育った環境に由来するのだろう。
ふと、彼女の華奢な体つきに目がいった。
「ちゃんと、ご飯、食べてるの?」
全く関係のない返答をしたけれど、彼女は小さく頷いた。
さっきまでの反応を考えれば、些細な違いが目に付く。
「本当は、あんまり食べてないんじゃないの?」
ぐ、と言葉が詰まった(ようにみえる)彼女。
「一人暮らしでな。面倒なんだ」
ぽつりと、明らかにトーンの落ちた声。
男前な言葉遣いに少し笑いそうになって、その内容に驚く。
「高校生で、一人暮らしなの?」
今時はそんな子もいるだろうけれど、女の子なのに。
彼女は頷いて、そのまま顔を伏せた。
「一人だ」
そう呟く彼女の言葉は、一人……ではなく、独りと言っているように見えた。
とくり、と鼓動が早まる。
俯いた彼女の髪が、さらさらと風に吹かれて。
覗いた項は、病的な程に白い。
僕は小さく息を吐き出すと自分の首に巻いていたマフラーを外して、それを彼女の首許に巻きつけた。
びっくりした(ようにみえる)彼女に、目を細めて笑いかける。
「僕みたいになっていいのか悪いのか分からないけれど、無表情を直すにはご飯をおいしく食べる事だよ」
「そうなのか?」
それはただの欲求ではないのか? そう続ける彼女の頭を、軽く叩く。
「女の子が、欲求とか言わない」
「……それは、勘繰りすぎではないのか?」
「……」
指摘されると、恥ずかしいんだよって事を一番に君に教えたい。
僕はベンチから立ち上がると、彼女に手を差し伸べた。
「おいしいご飯を、食べに行こう。そうすれば、幸せを感じる事が出来るから」
食べる事は、生きる事。
まずは、その欲求から満たした方がいいと思います。
僕みたいになるとかじゃなくてね。
そう伝えれば、納得したように彼女は僕の手を取った。
「それが第一歩ならば、そうしてみる。あなたには迷惑をかけて、済まない」
「いや、いいよ。可愛い女の子とご飯食べられるんだから、役得だよね」
営業で鍛えられた会話術は、さらりとこんな事まで言えるようになった。
大学ん時の自分に、見せてやりたい。
少し戸惑っている(ようにみえる)彼女の手を握りなおして、身体を公園の出口へと向ける。
「じゃ、行こうか」
連れ立って歩き出せば、彼女が口を開いた。
「あなたは、お人よしなんだな。いきなりこんなことを言われて、おかしいとは思わないのか?」
あれ、今更それ言う?
僕は前を向いたまま、肩を竦めた。
「まぁ驚いたけど、君が嘘を言っているようには見えなかったから。まぁ、僕にそんな期待されても困るけど、まずはおいしいご飯を食べて幸せを感じてみましょう?」
少し砕けた雰囲気で言えば、そうだなと彼女が頷く。
「しかし、あなたが言うように食べる事が生きることで、それがヒトとしての生きる為に付随する欲求だと言うのであれば、睡眠も大切と言うことだな」
その言葉に、思わず声のトーンが低くなる。
「寝てないの?」
ぎくりとした雰囲気が伝わってきて、大きく溜息をついた。
「寝なさい、ちゃんとね」
「……分かった」
そうだよ、生きる為の欲求なんだからね。
普段上司からひよっこ扱いされている自分が頼られているのを感じて、何か嬉しい気持ちになる。
鼻歌でも歌いだしそうな僕に、彼女の爆弾は投下された。
「しかし、性欲は別段満たしたくないのだが」
「女の子が、性欲とか言わない!!」
思わず叫んでしまった自分こそが、一番恥ずかしいと気がついたけれど後の祭り。
目を丸くした彼女がその後、それを細めて微かに笑んだのを見逃さなかった。
そして不覚にもその表情に魅入ってしまい、周囲から変態さんを見る目で遠巻きにされていた事に気がつくのはこのすぐ後。
とりあえず、彼女の笑顔を見てみたいと思った僕は、多分このあと奮闘するんだろうと思われます。
なんだか思いついて、一気書きしてみました。