第四話 記録に残らない名前
裁定の翌日、
神域は何事もなかったかのように静かだった。
空は白く、靄はゆるやかに流れ、
神使たちは淡々と役目をこなしている。
――まるで、
昨日の出来事など存在しなかったかのように。
ミコは回廊を歩きながら、胸元の勾玉に触れた。
冷たい。
あれほど強く光っていたのに、今は沈黙している。
「……夢、じゃないよね」
小さく呟く。
裁定の間。
月の光。
ツクヨミの視線。
どれも、はっきりと記憶に残っている。
「考え事か」
声をかけられ、ミコは顔を上げた。
白峰だった。
昨日よりも、どこか距離がある。
「いえ……」
言葉を濁すと、白峰は一瞬、視線を逸らした。
「今日は記録殿だ」
「……記録殿?」
「裁定後の整理がある。お前も来い」
拒否できる雰囲気ではなかった。
記録殿は、神域のさらに奥にある。
祈り、裁定、存在の履歴。
すべてが、そこに残されている――はずの場所。
扉をくぐると、無数の記録板が宙に浮かんでいた。
淡い光を帯び、静かに回転している。
「……すごい」
「触るな」
白峰は即座に言った。
「許可されたもの以外は、拒絶される」
ミコは手を引っ込め、周囲を見回した。
記録板には、神の名、裁定の結果、年代。
けれど――
「……ここ、空白が多くないですか」
思わず口にすると、白峰の動きが止まった。
「何の話だ」
「この辺りです」
指さした先には、不自然な“欠け”があった。
記録がない。消されたように、ぽっかりと。
「……気にするな」
白峰の声は硬い。
「必要のないものは、記録に残らない」
必要のないもの。
その言葉が、胸に引っかかった。
「……じゃあ」
ミコは、勇気を出して続けた。
「私の父は、どこに記録されていますか」
空気が、凍った。
白峰は、ゆっくりとミコを見る。
「……その話はするな」
「どうしてですか」
「聞くな」
強い口調。
けれど、拒絶の奥に、迷いが見えた。
「お前の父は――」
言いかけて、白峰は口を閉ざす。
代わりに、ひとつの記録板が、ひとりでに動いた。
古い板だった。
光は弱く、名前の部分だけが削られている。
けれど。
裁定理由の欄に、短い一文が残っていた。
『禁忌に触れたため』
ミコの喉が、鳴る。
「……これ」
指先が震える。
「この記録、誰のものですか」
白峰は、しばらく沈黙したあと、低く言った。
「……お前の父だ」
世界が、少しだけ遠のいた。
「禁忌って……」
「聞くなと言った」
だが、白峰の声は、もう強くなかった。
「知れば、戻れなくなる」
ミコは、胸元の勾玉を握りしめる。
冷たかったはずのそれが、
わずかに温もりを帯びていた。
――呼ばれている。
裁定の時と、同じ感覚。
消された名前。
禁じられた行い。
そして、自分。
「……戻れなくても」
ミコは、静かに言った。
「私は、知りたいです」
白峰は、目を閉じた。
それは、許可でも否定でもない。
ただの――沈黙だった。
記録殿の奥で、月に似た光が、
ほんの一瞬だけ揺れたことに、
ミコは気づかなかった。
第四話を読んでいただきありがとうございました。




