第二話 神域の日常と、小さな歪み
神域の朝は、いつも静かだ。
けれどその静けさは、
人の世界のそれとは少し違う。
風は吹いているのに音がなく、
光は満ちているのに影が淡い。
すべてが均され、整えられている。
感情の波すら、
ここでは平らにならされるかのようだった。
ミコは回廊を歩きながら、
無意識に空を見上げていた。
白い靄の向こうに、
今日も月が浮かんでいる。
昼でも夜でもないこの場所で、
月だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。
飛べる神使たちは、あの空を渡る。
翼を広げ、
あるいは光に身を預けて。
回廊の上空を、
何人かの神使が静かに通り過ぎていく。
――自分だけが、地に足をつけたままだ。
その事実を、
今さらのように意識してしまう。
「考え事か」
声をかけられ、ミコは足を止めた。
白い獣の姿をした白峰が、
柱の陰から現れる。
鋭い眼差し。
けれど今日は、
どこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
「いえ。ただ……」
言葉を濁すミコに、
白峰はそれ以上問い詰めなかった。
それもまた、
彼なりの距離の取り方なのだと、
ミコは分かっている。
「今日は祈りの記録整理だ。
人界から届いたものを分類しろ」
「はい」
神域には、日々祈りが集まる。
声にならない願い。
形にならない想い。
届くはずのないと分かっていても、
それでも向けられた切実な感情。
それらは神使によって整えられ、
裁定を経て、
神々のもとへと運ばれる。
ミコの仕事は、
その前段階だった。
淡い光を帯びた記録板に触れると、
ひんやりとした感触の奥から、
微かな熱が伝わってくる。
人の声が、
胸の内に直接、染み込んでくるようだった。
「……まだ、祈ってる」
思わず零れた呟きに、
白峰が眉をひそめる。
「何だ?」
「いえ。この祈り……
もう祀られていない土地のものです」
記録板に刻まれていたのは、
名前の薄れかけた、
小さな神への祈りだった。
文字は淡く、
ところどころ欠けている。
それでも、
消えてはいない。
「裁定待ちのものだ」
白峰は、淡々と言う。
「信仰が途切れかけている。
近く、処理されるだろう」
――処理。
その言葉に、
ミコの指がわずかに震えた。
祈りを、
物のように扱う言葉。
「……消される、ということですか」
「役目を終えたということだ」
白峰の声には、
感情がなかった。
「神域では、それが正しい」
正しい。
その言葉が、
胸の奥に、小さく引っかかる。
記録板から伝わってくる祈りは、
弱く、途切れがちで、
それでも、必死だった。
忘れられているのではない。
ただ、
届きにくくなっているだけ。
「白峰さん」
ミコは、思い切って口を開いた。
「もし……
ほんの少しでも祈りが残っていたら、
その神は、
まだ存在していいんじゃないでしょうか」
白峰は立ち止まり、
ゆっくりとミコを見る。
白い獣の瞳が、
一瞬だけ細められた。
「その考えは危うい」
低い声だった。
「感情で裁定を揺らがせれば、
神域の均衡は崩れる」
ミコは、何も言い返せなかった。
理屈は、理解できる。
だからこそ、
胸の奥で何かが軋んだ。
その瞬間だった。
――胸元の勾玉が、淡く光った。
「……?」
驚いて握りしめると、
かすかな温もりが指先に残る。
母から渡された、
ただ一つの形見。
理由は分からない。
けれど、
この祈りに反応している気がした。
白峰も、その光に気づいたらしい。
「その勾玉……」
一瞬だけ、
彼の表情が揺れた。
何かを言いかけて、
しかし、口を閉じる。
「今日は、ここまでにしろ」
言い切るように告げられ、
ミコはそれ以上、何も聞けなかった。
回廊を離れながら、
ミコは思う。
祈りは、まだそこにあった。
消えるべきだと決めるには、
あまりにも弱く、
あまりにも必死で。
そして胸元では、
勾玉が静かに冷えていく。
まるで――
何かを、思い出したかのように
読んでいただき、ありがとうございます。
第二話では、
神域での日常と、その中にある「小さな違和感」を描きました。
神域にとっての“正しさ”と、
ミコが感じ取ってしまう人の祈り。
そのズレが、少しずつ形になり始めています。
次話では、
その「裁定」がよりはっきりと姿を見せてきます。
よければ、続きを読んでいただけると嬉しいです。




