番外編 それでも、地に立つ
神域の朝は、今日も白い。
変わらない光。変わらない静けさ。
けれど、ミコにとっては少しだけ
違って見えていた。
「……重い」
足を踏み出して、つぶやく。
相変わらず、空は飛べない。
羽が生える気配もない。
でも、もう焦りはなかった。
地に足がついている感覚は、
今ではどこか安心に近い。
「境界の神使様、遅いぞ」
回廊の柱にもたれながら、白峰が言った。
「様はやめてください」
「正式承認されたんだ。自覚を持て」
からかうような口調だが、視線は柔らかい。
あの最終裁定から、数日。
神域は一見、何も変わっていない。
だが実際には、小さな揺らぎが増えていた。
祈りが消えかける前に、かすかに波打つ。
土地神の気配が、完全に沈む前に引き戻される。
それは劇的な変化ではない。
けれど、確かに――“揺れ”が残るようになった。
「今日の記録、行きます」
ミコは歩き出す。
以前よりも、祈りの“温度”がはっきり分かる。
数値になる前の、ざらついた感情。
誰にも届かないと思いながら、それでも零れた声。
それらが、以前よりも近い。
記録室に入ると、淡い光が揺れていた。
「……あ」
一枚の記録板が、不安定に明滅している。
山間の小さな祠。
参拝者は、ひと月にひとりいるかどうか。
消滅基準までは、まだ余裕がある。
でも。
そこに、ひとつだけ強い祈りが混じっていた。
幼い声。
『お母さんが、よくなりますように』
胸が、きゅっと締まる。
病床の母を思う子ども。
必死に、何度も祈っている。
数は少ない。
けれど、重い。
「……白峰さん」
「分かっている」
彼も感じているらしい。
「裁定基準では、維持対象だ」
「でも」
「でも、だな」
白峰はため息をついた。
「お前は、どうしたい」
問われる。
これが、役目。
誰かの指示ではない。
自分で選ぶ。
ミコは、記録板に触れた。
冷たいはずの板が、少しだけ温かい。
「……この祈り、直接届いていません」
「土地神が弱すぎる。だから、薄まってる」
白峰は腕を組む。
「介入するか。裁定違反ではない。
境界の権限で、補助可能だ。」
まだ見習いだと思っていた。
けれど、もう違う。
ミコは目を閉じる。
人界の空気を思い出す。
土の匂い。
冷たい風。
小さな祠。
そこに立つ、子どもの背中。
深呼吸。
そして。
そっと、祈りを拾う。
神へ直接流すのではない。
土地神へ、そっと“つなぐ”。
強引ではなく。
押しつけでもなく。
ただ、細い糸を結ぶみたいに。
胸元の勾玉が、静かに光る。
とくん。
心臓みたいに。
記録板の明滅が、落ち着いていく。
弱々しかった光が、ほんの少しだけ強くなる。
それは劇的ではない。
奇跡でもない。
でも。
「……届きました」
ミコは、目を開けた。
白峰が小さく頷く。
「境界の仕事だな」
「大袈裟じゃない。世界を変えるわけでもない。」
「でも」
「でも?」
「こういうの、嫌いじゃないです」
自分でも驚くほど、自然に笑えた。
白峰は、珍しく吹き出した。
「親子だな、本当に」
その言葉に、胸が少しだけ疼く。
父は、どこにいるのだろう。
存在の狭間か、それとも、どこかの境界で。
けれど。
今は焦らない。
追いかける必要もない。
自分の足で歩いていれば、いつか交わる気がする。
記録室を出ると、神域の空が揺れていた。
以前より、ほんの少しだけ。
完璧だった白が、微妙に濃淡を持つ。
「均衡が崩れてるわけじゃないですよね」
「崩れていない」
白峰は空を見上げる。
「揺れているだけだ。
揺れているほうが、折れにくい。」
そのとき。
月光が、ふっと差し込んだ。
昼なのに。
淡い、夜の色。
ミコは顔を上げる。
遠い。
でも。
前より、少し近い気がする。
声はない。
啓示もない。
ただ、見ている。
境界に立つ者を。
「……まだ飛べませんけど」
小さく呟く。
「それでいいです」
地面を踏みしめる。
重い。
でも、温かい。
祈りのすぐそばにいられる重さ。
神域の白の中で、
ミコの足跡は、かすかに残る。
消えない。
均されない。
揺らぎとして、そこにある。
境界の神使は、今日も空を飛ばない。
代わりに、歩く。
祈りのほうへ。
月は、遠くにある。
でも。
本当は、すぐそばにある。




