第十話 境界に立つ者
裁定の夜は、神域に影を落とす。
昼でも夜でもない。
白が薄く濁り、
光の粒が、落ち着きなく揺れている。
それは、均衡が揺れている証だった。
ミコは、ひとり回廊に立っていた。
胸元の勾玉は、静かだ。
熱も、光もない。
――嵐の前の静けさ。
「……来るな」
そう言われていた。
それでも、来てしまった。
白峰の言葉が、頭の奥で何度も反芻される。
――お前は、もう戻れない。
分かっている。
分かっているから、足が震える。
鈴の音が鳴った。
今度は、短く、はっきりと。
最終裁定の合図。
ミコは、一度だけ目を閉じた。
――逃げない。
そう決めて、歩き出した。
裁定の間は、以前よりも“狭く”感じられた。
円環の光が、密度を増している。
神々は、すでに揃っていた。
声を持たぬ存在たちが、
意思だけで空間を満たす。
「裁定を再開する」
重なる声。
「対象、人界・□□の土地神」
淡い像が、中央に浮かび上がる。
小さな影。
かすれた光。
消えかけているのが、誰の目にも明らかだった。
「裁定理由は、祈りの減少」
「役目の終結」
「均衡維持のため、消去が妥当」
淡々と、正しい言葉。
ミコは、歯を食いしばる。
勾玉が、わずかに脈打った。
「境界の子」
声が、直接、意識に触れてくる。
「お前の申し出を、最終確認する」
空気が、一気に張り詰めた。
「この裁定に介入し、存在維持の責を負う。
それは、均衡の外に立つことを意味する。
理解しているか」
ミコは、ゆっくりと頷いた。
「はい」
喉が、少し痛む。
「祈りが消えれば、神は消えます。
それは、正しい。でも…」
一歩、前に出る。
「“続いているもの”を、終わらせる権利が
私たちにあるのかは、分かりません」
ざわめき。
「疑義は不要だ。裁定は、選別だ。残すか、消すか」
白峰の気配が、強くなる。
「……ミコ」
名を呼ぶ声。
止めたい。だが、止められない。
ミコは、白峰を見なかった。
見れば、揺れる。
「私は、選びます」
そう言った瞬間、勾玉が強く光った。
裁定の間に、月光が流れ込む。
――ツクヨミ。
言葉はない。
だが、はっきりとした“圧”があった。
「境界の子」
神々の声が、わずかに変質する。
「選ぶとは、どういう意味だ」
ミコは、深く息を吸った。
「この神を、人界に縛りません」
その言葉に、空気が凍る。
「祈りが消えれば、消えていい。でも…」
視線を、淡い像へ向ける。
「終わるまでは、終わらせないその間、
均衡が崩れるなら」
胸に手を当てる。
「私が、境界として受け止めます」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして――
「……前例がない。境界の子が、
自ら重りになるなど」
ミコは、小さく笑った。
「だから、境界なんでしょう」
その瞬間。
土地神の像が、ほんのわずか、光を取り戻した。
祈りだ。
どこかで、誰かが手を合わせている。
その事実だけが、ここに届いた。
「……裁定を下す」
声が、重く響く。
「本件、消去は行わない」
ミコの胸が、大きく波打つ。
「代わりに」
続く言葉。
「境界の子・月代ミコを、監視対象とする」
「均衡を乱した場合、責はすべてお前が負う」
それは――
罰であり、承認だった。
月光が、静かに引いていく。
ツクヨミは、何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけ。
――肯定した。
裁定の間を出たあと、白峰は、何も言わなかった。
ただ、ミコの前に立ち、深く頭を下げた。
「……すまない」
それだけだった。
ミコは、首を振る。
「これで、いいんです」
本当にそうかは、分からない。
でも――
選んだ。
神域の空は、少しだけ明るさを取り戻していた。
けれど、その奥に。
確かに、新しい夜が生まれている。
それは、ミコ自身の影だった。




