ポエム集
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(星のカケラ)
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【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
不良やってる、真面目青年。
猫ちゃん大人気。アイドル並みの人気である。
ふと思うこと。この世の男女の性別が、逆になったらどうだろう?男が女に。女が男に。異性に夢見て来た性格がそのまま体現され実現され、その通りの人生を送ってゆく。それぞれ、どうゆう人間になるのか興味がある。
それぞれの福音の仕方がある。適材適所。だからコピー人間は居ない。自画自賛も大事じゃない?自分を褒めてあげる事も。
あとの文章・書き方・自分なりの表現を、想像させる文章が良い。理想である。
本業は影響されるな。でも学ぶ(まねぶ)事は影響だ。だから、空想の中の自画自賛で浸るしかない。
初めは良くてもそのうち飽きて、段々人気が無くなり現代人は去って行く。俺にとってはこれが人の世の常だ。
短い恋愛生活で学んだ事。女が来る時は集団で来る。
三島由紀夫には、ブルース・リー的な何かがある。
スマホがまた勝手にアップデートされた。運営する方のコンセプトがあるのだろうが、買ったらこれは俺の物である。言えば、他人の家に勝手に上がり、例えば冷蔵庫の品質を勝手に変えて居る様なもの。他人様の物の品質・内容を勝手に変えて、これが公的に罷り通って居る事そのものがおかしいのだ。運営する方のコンセプトがどうのこうのより、俺のコンセプトもちゃんとあるのだ!!それを無視して他人のプライベートに土足で上がり、勝手な事をするな!
歴史の証明。だから日本は核保有国に成らなきゃならなかったんだ。でも日本は核保有国になった途端、狂気に走る。第二次世界大戦の再現を、そのまま寸分の狂いも無く、さらに酷く踏襲するだろう。原爆が入って来るから。根拠は、歴史の証明に在る。人間は反省しない。罪を確実に繰り返す生き物だからだ。日本人はお山の大将。必ずあの悲惨の再現をする。核保有国になった途端、必ず暴走する。これは確実である。しかしこれまで記した通り、その核保有国にならなきゃ許されない処がこの現実にはある。なんて人の時代だ。
「俺に命令出来るのは、神様とイエス様だけです。人間じゃない」。
「ついに、この人の本性が暴かれた!?」なんて言うが、それまでに見たのも本性である。
噛み合わない議論。1 +1 = 2、これを知らないで1 +1の議論をずっとしてる様なもんである。
IQ 20違えば会話が成立しなくなる、なんて言葉を聞いたが、そのIQを誰が決めたのか?
ユーチューブ、ちょっとは広告を自粛しろ。これじゃテレビのシーエムとまったく変わらん。
「前の方が良かった」と言うのは、既に得てして、その前の方に愛着が湧いてるからだ。
よく元恋人の物を、別れた後に、全部けじめとして捨てる、未練を残さない為に捨てる、なんて言うけど、本気で愛した人の物なら、俺は残すと思う。
動画シナリオ。一瞬のシナリオを書く事。これが大事。俺の仕事。
感覚は、結果はどうあれ、正しいのである。神様が人間に、具えて下さったその感覚。
顔・ファッションを指して得意げに、「フフ、これはメイク」。
「なんだ。作り物か」。
普段見れない現実(真実)を見せる事に価値がある。
人の悪口・陰口を散々叩き、いつもその姿勢を変えない。損得勘定だけで人を見て、その相手に自分にとっての利益が無くなれば、その相手がどんな状態にあっても、すぐに立ち去る。メリットだけで人を見るから、その人を愛して居ない。陰口を常に叩く人は「自分が認められてない」と言う劣等感を常に抱き、酷く未熟で幼稚な物の考え方しか出来ない。自分が優位に立った時、劣等に立った人にどう接するかで本性が現れる。また言葉の遣い方。「ありがとう」という感謝をすぐに言う人は、自分がそうされて当り前とは受け取っておらず、本当に有難い事として、その相手の言動を受け取って居る事の証になる。自分は周りに支えられて居る…と常に思って居るからこそ、「ありがとう」と素直に言う事が出来、その相手・周りの人達を自然に敬う事が出来る。何かの病で心身が弱って居る時、自分が弱い立場にある時、この心理に辿り着き易い。些細な事でもそれを共有して喜びに変え、共にその事を周りの人・相手と喜び合える。「して貰って当然」と言う人は、その「当然」のハードルがどんどん高まって行き、やがては「もっとして」「それぐらいやって当り前」と要求が膨らみ、この相手・周りの人達からして貰う事には、どれだけ積み上げられても感謝が無くなる。夫婦でも、初めは体裁で「ありがとう」等と言ってても、時が経てばそれが当り前になり、結局、夫は「妻が育児・家事をして当り前」、妻は「夫が金を稼いで自分の所に運んで来るのが当り前」になり、二人の間にはやがて感謝が無くなった。そして離婚。その離婚の時でさえ、特に女はその立場を利用して、夫に慰謝料をせびり集る言動に出易い。夫の方はその未練から、性的欲求が更に増し、その元妻の女を性的処理の道具に敢えて貶め、ストーカー化し、その時の自分に必要なら、その相手である女(元妻)を殺傷する迄に至る事もある。感謝は単なるマナーの問題には無い。相手の事をその本心でどう受け止めて居るか、時間の経過によりその態度をどれだけ自然に振る舞えるかで、互いに「その相手に本当の愛があるかどうか」が分かる。また恋愛や夫婦仲に於いても、相手を試す姿勢には、「その人の他人に対する根本的な姿勢」が映し出されて居る。例えば連絡時間を遅らせたり、態と異性の影を匂わせて嫉妬を誘ったり、逆のパターンで嫉妬して見せたり、急に冷たくしたり優しくなったりして「相手がどう出るか」を試そうとする時。その時にそうする人には「他人は自分が操れる存在」「感情はコントロール出来るもの」と言う、その人なりの考え方が潜んで居る。詰りその相手を「対等な人間」と見ておらず、「自分の感情・要求を満たす為の傀儡」として見て居る。そうされ続けた男や女は、その相手を本当に愛して居た時、又は愛そうとして居たならば、その「試される事の連続」に疲れ果て、やがてその一連を悟り、静かにその人の前から去って行く。この様な「人を試す人」は、どんなに関係が変わっても、その本質は変わらない。譬えその関係で上手く行った様に見えても、その夫婦関係には「相手を思い通りに動かそうとする言動傾向」が続いて在り、やがては支配的な関係になって行く。恋愛は信頼で成り立つもので、試すものではない。相手を信頼し、安心して自分を曝け出せる関係こそ、本物の愛である。だから「試されて居る…?」と少しでも感じたら早めに一歩引き、冷静にその相手を見極める必要がある。その(人を試す)癖は一時的なものでなく、「人間性の一部だ」と心得ておく事。そして「その相手の性格の良し悪し」を見抜く上で更に大事なのが、その人の周りの人達との関り方を知る事。好きな人にだけ優しい人、特定の人にだけ明るく優しく当たり障り無く振る舞う人はかなり多い。しかし人の本質は、自分にとって損でも得でもない人に対してこそ出る。例えば、友人との約束を軽んじたり、都合の良い時にだけ連絡したりする人。家族や友人との関係が常に不満だらけで、愚痴ばかり言ってる人。仲の良かった人とでも、少しの意見の違い・考え方の違いだけで、すぐ縁を切る・疎外する人。この様な行動パターンは、人間関係を「自己中心」でしか見てない事の証。その人には愛する人は無く、敵・味方しか居ない。「私はやはり友達は多い方が良いと思うけど、合わない人とはすぐ縁を切ります」と平然と言ってのける人は、その習慣が長らくでも、またそれなりのインパクトのある経験を以て身に染み付いてる事の表れであり、その人は、譬え「本気で愛した人」でも、合わなくなればすぐに切り捨てる。他人を使い捨ての様に扱う人は、結局、誰に対しても「今だけの存在」として扱うのである。だからその時好きな人、特定の近しい人との関係だけを見ず、その人の周りの人との関係を含め、総合的に人間関係の在り方を見る事が大切だ。そこにこそ、表面だけでは絶対に見極められない、その人の本性が現れて居る。人間は、特別な場面では、幾らでも演じられる。その時々に適った理想像を演じる。そのとき好きな人の前では、誰だって優しく振舞える。「好き」「愛してる」なんて言葉も何度も言える。しかし本当の性格は、誰も見て居ない時、その人が独りで居る時、気を抜いて居る時、何の体裁を繕わないでも良い時に、ふと出る。そこを見抜けるかどうかで、人生は大きく変わる。誰かの前で、人に席を譲る・人を大事にする言動に出る事より、その相手と二人きりの時、その相手が自分より弱い立場に在る時、その相手にその行動をしても何の利益も無い時にその人を愛せる、優しく出来る事の方を見る事の大事。また他人の物を丁寧に扱えるか、借りた物をきちんと返すかと言った行動にも、人や物を大切にする姿勢が現れる。そんな小さな事・陰に隠れた努力が出来ない人は、やがて誰に対しても長く付き合えば、その相手の事を大切に出来ず、雑に扱う様になる。そしてもう一つ大切なのは、ストレスが掛かった時の態度。機嫌が悪い時や思い通りに行かなかった時にすぐ暴言・暴力を働く人は、根本的に感情をコントロール出来ない未熟な性格を抱えて居る。結婚を一応のゴールに見て、恋愛段階では優しく出来、多少のストレスの負荷を覚えた時でも無難に振舞えても、連続して二人の価値観・感情が共存し合う結婚生活を送るとなれば、やがてその経過に疲れを覚え、その疲れが負荷とマンネリを呼び、その疲れ・マンネリを打破しようと、自己中心に振舞う様になる。この「自己中心」が結局は、先に言った「感情をコントロール出来ない性格から生まれる暴言・暴力」になる。その人の何気ない日常が、その人の未来そのものである。特別な場面での派手な優しさ・愛に目を奪われず、こうした小さな習慣・言動にこそ注意して、その相手がどんな人間かを見極める事が大事にある。そこにこそ、その人と、その人に関わる人の未来が現れて居る。人間と言うのは、良い所ばかり見て居ても、本当の正体は見えて来ない。寧ろ「嫌な部分」「見たくない処」にこそ、その人の本性が隠されて居る。それを見抜く目と心を養う事を怠れば、どれだけ努力しても報われない。だからこそ、その相手を感情的に好きになったり、何かで崇めて神聖視しようとする時には、一歩引き、冷静に相手を見詰め、把握する事が大切である。自分にとって良い相手とは、格好が良い・美人、話や価値観・考え方が合うとか、そう言う事じゃない。「常に細かな事に誠実で、人を大切に出来る人」それを見極める事が出来る様になった時、本当の幸せが見えて来る様になる(松下幸之助の言葉を纏めて引用)。しかし本当の悪魔は、これ等の事を網羅してマスターし、その上で悪の方向へ誘う形でやって来る。人間の正義の物差しでは、測れない存在なのだ。それは信仰に依り、神様とイエス様が全ての人に教えた御言葉(聖書の言葉)、聖霊の働きに依り、初めて見抜く事が出来、人にとって生来の幸せ…救いに繋がるものである。そして人(罪人)の世の中は、この神様とイエス様が教えた御言葉、聖霊の働き、信仰の力を、悉く蹂躙し、躓かせ、葬ろうとするものである。
やはり世の終わりの間近になれば、キリスト教の他の別の宗教…仏教や神道などが日本でも、心の拠り所になる宗教として、そこかしこから多く湧き上がって来るのだろうか。聖書にも、その様な事が書かれてあった様に思う。
なんでもかんでも現代人は「過ぎる、過ぎる」言い過ぎるからなあ。「過ぎる」を言い過ぎるよ。
正体の分からない人を招待した。
煙草がもし健康に万能薬だったら、皆んな吸う様になるだろう。詰りはそう言う事だ。
やっぱり九〇年代の洋画は好きだ。独りの世界がちゃんと生きて居る作品が好き。
「夢の中の人は危険。欠点がないもの」なんて言われたけど、ある場合もある。ヤな思いさせられた事もあるし。
「あなたの言う事は、いちいち正しいの。正しいからほっといて」
この街のどこを取ったってグレーだ。白の部分なんてない。正義は、人の理想の中の幻の様なもんだ。
知識とフィーリングで、いろんな学問が生まれるのである。知識は種、フィーリングが開拓。
「私たちはみんな宮廷詩人だった」或るウェブ上で見付けた見出し。中々面白いネーミングだ。
懐かしい昔のアルバムを見て来た。誰でも若い頃は輝かしい。でも俺は今、今、今が良い。福音に生かされるから。福音に動く事が出来るからだ。
人が譬え「駄目だ」と言っても、人が言ってる事に過ぎない。だったら、俺が大丈夫な様に、その方法を編み出す。詰り、諦めない事の大事。この精神は大事だ。こうして先駆者、開拓者が生まれるのである。
『夢時代』、心の自由帳である。
イエス様を十字架に付けて殺したあの人間の姿。この人間の姿に、過去から現代までの人間の姿・本性が現れて居る。人間は神様を、妬み、辛み、嫉み、プライド・傲慢、罪深さ、欲望により、殺す生き物だったのだ。あれが人間の姿である。本性そのものである。この事を全ての人間は、各自が己に思い知らねば成らない。神様と人間の関係は、そこに先ず在るものだと。信仰に生かされるなら、先ず悔い改めねば成らない。謙らねば成らない。自分の罪がどれ程のものだったかを思い知り、神様とイエス様に従う心と姿を、もう一度正さねば成らない。それでも神様とイエス様は、人間を許し、ずっと変わらず、救いの手を差し伸べて居て下さるのである。
ダビデは、姦淫を犯す者だったらしい。同時に、殺人者でもあったと言う(アーサーホーランドのメッセージ、二〇二五年一二月二日、『七十四歳、俺もまだ工事中 人生に完成は無い。だからこそ「変わり続ける」努力が必要だ』より)。「ダビデの人生も半端じゃない人生だった!」と。
麻生太郎が中国に対し、台湾にて「戦う覚悟が必要である」と言い、仮想敵国は無論中国で、これに中国は「身の程知らずで、出鱈目も良いとこだ!」と又反抗。これは二年前のニュースだが、二年前も今も殆ど変わりは無い。…本当にどうするのか?今の非核保有国の日本で、核保有国の中国に、どう対抗するのか?ウクライナとロシアの二の舞ではないのか?世の中は戦争に向かって走って居る。聖書に最終戦争の事が書かれて在る限り、その戦争は絶対に起こる。その最終戦争への歯車として、今ウクライナ・ロシア戦争や、中国による台湾有事・フィリピン有事・日本有事・アジア有事も騒がれ、イスラエルは周りの殆どの国々と戦争をずっと続けて居り、もうニュースにはならないものの、これ等の戦争は全部その「最終戦争が起こる為の個々の契機(碑)」に思えるのである。アメリカの支援。これが現実的に、どこまでの支援になるのか?アメリカにとって日本は戦利品であり他国であり、アジアを管理する為の緩衝国であり、奪われたら戦時下での有利を失う事になるから奪われたくない国、でしかない。詰り、自国ではない訳だ。自国が他国に奪われる事と、他国が他国に奪われる事の絶対的な違いを考慮する上で、実際に日本の治安がどこまで護られるか?と言う事を想定すれば、日本は確実に悲惨な目に遭う様に思える。無茶苦茶になりはしないか?日本国内は無茶苦茶になっても、その土地さえ確保出来れば良い、日本人一人一人の命より国土が大事、今後、何十年後・何百年後の日本から得られる利益(アメリカの国益)が大事と見、現代の日本人一人一人の命や生活など軽んじて居るアメリカ。これが敗戦国の当り前に在るが、今の日本はこれを「当り前」で通せば治安・平安が成らない。この当り前の国防が出来ない現状を「どう生きるか?」が、今の日本人全てに問われる。アメリカ頼みでは、日本の平安はやはり成らないのである。日本は利用される上で護られるだけ。それしか無いからそれを正当化して居るが、いざその段になって悲惨を見るのはどちらか?この事を、出来るだけ早めから本気で問い、日本が自力で国防出来る対策を見付けなければ成らない。もはやそれが出来ない現状ながら、行き場の無い勇気や怒り・団結力等が、空回りをして居る日本の現状に在る。簡単に書く。
現代人はもう皆バテてる。肝心な事・大事な事を簡単に見落とす様に成った。書き落としが本当に目立つ。
イエス様。人間の為に。人の間で人間を罪から救う為に。永遠に感謝します。
或る人の言葉。「俺は最低賃金でやってるんだ。毎日へぇへぇ言いながら一生懸命働いてる。ユーチューブライブなんかでスーパーチャットと言うものがあり、それで視聴者ユーザーが一万円や二万円ポンポンと投げ掛けて、それをアップ主が受け取って居るのを見ると、やっぱりヘコむ。でも俺は常に感謝して生きたい(生かされたい)。だから余計なものは全部除外するんだ。弱いね」。
遠慮して「少しつらいです」なんて言われた時に、その遠慮の中に、シリアスで、もう帰らない君が居る事を知る。一歩引いて、二人の間に壁を作り上げた君を知って。
人間。歳を取れば、本性が出て来る様になる。
芸能人の自己紹介。その都度の自己紹介。なんでも綺麗に纏めすぎる。そこに嘘を見る。親しみを憶えるのは、正直に対してだ。
心理ホラー・サスペンスのシナリオは、ふっと、常識的な思考が途切れる時なのだ。
アメンボ。刺すものかと心構えて獲ったら、長い足が水に濡れて使い物にならず、じっとして居り、俺の指に全身を任せっきりで、余りにも非力だった。こいつは、田圃の空を泳いでる方が良い。心からそう思う。
人はお上品にしようと思えば幾らでも出来るのである。問題は、その本性がどうかと言うこと。だろう?
俺はもう、何かして貰う事だけを期待して居る。俺から与える愛は尽きてしまった。日常、そんな様に思える。助けられたら、その助けてくれた人を助けるのが当り前なのに。そんな事さえ出来なくなった俺。
今は混沌カオスの時代。正義が何処に在るのやら。人間に正義は無い。神様と人間の中にだけ、正義は在る。人間は騙し専門。どうしても、人間を信じられない。神様だけを信じたい。やはり、そう成る。「隣人を愛せよ」と教えてくれたイエス様の言葉。何処かへ行った。こんな人間の中に居ると。
何億年経っても、人間は自然を説明出来ない。此処に既に神秘が在る。
AIに聞いても検討検討で答えが無いのと同じ場合が多い。
あとから見て読んで、良くないと思うものは、やはり繰り返したくなく、他人に見せたくないものだ。でも「それが正直なんだ」と作家は、それでもその心の日記・正直に見せねば成らないのである。
イエス様の名に依って、全てのクリスチャン(人)は神様と繋がって居る。
俺は口語訳聖書が好きである。母がずっと昔から持って使って居た、前の教会の時からも使って居た歴史あるものである。そして俺はこの聖書の書き方に、先ず感動を憶えた学生時代を送ったからである。思い出と共に、奥行きのある、懐かしみのある安心がある。
聖書とその人の間に、他人の余計な注釈は要らない。聖書が全てを語ってくれる。それでも注釈じみた言葉が要る時は、神様がその人を遣わし、その注釈が必要な人の所へ連れて行ってくれる。遣わされる時、祈りに依って、その事は成される。
俺はずっと昔から、この母が使って来た聖書に思う所を書き込み、自分なりの解釈や疑問を、誰の目にも触れないからとその安心感で、自由気儘に書いて来た。今、その聖書をブログで公表して居る。ここにも又、神様がご用意して下さったのか、奇跡の様な一致する瞬間がある。そこには母の書き込みもあり、一九八〇年代、いや七〇年代から使って居たなら、その当時の母の書き込みまであるのだろう。それを今このブログを通して皆が、読んで居るのだから。嬉しい事だ。
布教。やはり聖書をそのまま読ませるのが、一番良いと思った。神様とその人の、一対一の空間が生まれるからだ。
神様を恐れる事。神様に屈服する事。誰でもおそらく、神様に屈服するこの心を以て誕生させられて居る。その恐れが神様を崇める事に変わる。神様は正義を守る。その正義を守る人を守る。その守りには永遠の愛と恵みが在る。ソドムとゴモラの街を、神様は火の玉を遣わして滅ぼした。このソドムとゴモラの街は、現代の世界中ではなかろうか。神様が滅ぼそうとすれば、この世界はあっと言う間に滅びるのである。これを先ず恐れる事。その中で、正義を守る人々を神様は守る。詰りソドムとゴモラの街の滅びに例えて言えば、その火の玉を遣わして、神様は正義と、正義を守る人々を守るのだ。そのソドムとゴモラがそれ以上に栄えず、その栄えにより誘われ、滅びの道に歩を進めようとする、それでも正義を守ろうとする人々を守る為に。その様に俺は今信じて居る。神様を愛する。永遠に愛したい。神様を永遠に愛したいと言う事は、イエス様を永遠に愛したいと言う事に同じである。
好きな人は、好きになってくれないのだ(笑)。
人間は、歳を取ると、ここで全部一気に言ってやる!もう残さず、自分が天に召される前、地上から去る前に、全部を言っておいてやる!言い尽くしてやる!とする姿勢が確実にある。
若さは、そこに土着しない強さがある。跳ね返せるのだ。
みんなに見られてないところで、やる気を出すのが醍醐味である。そう言う人にもっとなってみたい。みんなに見られてるところでやる気出すのは普通だからね。じゃあ見られなくなったらやる気なくなるの?そんなの悔しいじゃない(笑)。多分、見られたら励みになると言う、そんな人とこう言う人は、一時、その逆なんだろう。
戦争をするなと言う。周りは敵だらけと言う。この国を護ろうとする。護る事が戦争を始める。この繰り返し。
『ジョジョの奇妙な冒険』で一番好きなシーンは、エシディシに憑かれたスージーQが、シーザーとジョセフに波紋で助けられようとする時、悪態吐きながらも、顔を大写しの形で涙を流すあの一瞬のシーン。日常なら見落としがちなあのシーンである。
これも何度でも言うが、人間の世界は必ず、確実に、残念な方向へ行く。それは絶対である。例えば戦争。理由は人間が罪人だからだ。だからこそ、キリストの真実しか人間を救えないのである。人間の力のみでは、人間を救う事は永遠に無い。救う力は人間を通しても神様から来る。人間を滅ぼすのは罪であり、悪魔だ。
ジェームズと聞くと、ヒゲ面を連想する。ジェームズヒゲ。
何かやり残して置くと、寝易くなる。
物と物とが遊んでる空間が良いのである。落ち着く。
感動的な映像を見て「こんな事、普通によくある事よ(笑)」なんて言う人が居るけど、実際、言うのと考えるのと、行動するのとでは雲泥の差がある。中々出来るものじゃない。日常の自分に思い知って居るだろう。隣人を横目に。
こんな場面を見ていつも思うのは、戦争の中でこの行動をして、通用するかどうかと言う事。「馬鹿な奴だ。場違いも良い所だ」なんて嘲笑され、間抜けの内に一瞬で銃で撃たれて終わり。これがオチではないか。ジャッキー・チェンの映画でも、その直前まで敵だった人が火だるまになり、ジャッキー・チェンは攻撃を加えようとしながらも、その火だるまの人を助けようと藻搔いた。美談に聞こえるが、それがどこまで通用するか。様々な場面で、どこまで通用するか。しかし、この人を守ろう、助けようとする行動が、人の本来の本能、行動だと知る。そう信じたいと言う人が俺の中に居る事こそ、そうする人の証明ではなかろうか。
不法が蔓延って、人間が愛を見失い始め、その愛の温もりを忘れた今、その人間を取り戻そうと藻搔いて居る。感動する動画を見て感動したがる人間がその証明に成ろうか。誰かからは笑える話になろうが、これが本性である。人の本性。…聖書に在る。不法が蔓延ると愛が冷える。戦争は起こらねば成らない。戦争を起こすのは人間の罪。人間は、この様に世界を終わらせようとして居る。神様は飽くまで人間にレベルを合わせ、視線を合わせ、その上で常に救いを与え続ける。その様に、思い知るほど信じる。
説明で、言葉が多くなると伝わりにくいものである。その時の言葉は短く。
「俺と戦うんか!?」と凄む奴は、戦争の考え方と全く同じなのである。行き着く先を考えろ。
当り前の常識を言えない(国際)政治である。正義を欲望により偽の正義に変え、独裁者の都合に好くした上で「正義、正義、公平・平等」と言って居るからそれが成る訳ない。罪の世、人間の罪深さを、人間自身が暴露しそのまま現して(表して)居る。
人から離れた人を見て、安心を得る事がある。人気のない人を見た方が安心を得る様に。
そんだけ言い訳してる暇があったら、努力・挑戦したらどうなの?言い訳で、人生を終えるつもりか。
彼「日本の首相に、くたびれたおっちゃんを選んでもしゃあないと思う。保守に廻って何もせんでしょう。無難無難で。女は訳の分からん元気があるからそれで保ってるんだろうか」。
芸能人とその場で会うとしても、多分普通の人と会うのと変わらない。ちょっと格好良いかなぁ、奇麗だなぁ、と思う程度だろう。腰掛け程度に会う、俺の場合はこれに尽きようか。目から鱗、その状態で分かった気がした。
自分に対する他人から見た分析って、自分ではわからんからね。他人でないと。
欲望・罪は、自分にとって嫌な事を忘れる。
人は義務教育を経て、大体文字が書ける様に成れば、小説や随筆を書こうとすると、大体に似た様なものに成る。そこで俺は悩んだ。どうすればこれ等を出し抜けるかと。俺が白紙に文字を書けば、後光が発つ様に、その文章が誰の目にも浮かび上がっては来ないか、その書き方をマスター出来ないものかと。作家の悩みにある。
音楽は、雰囲気があるものが上手なんだ。
『ドラゴンクエスト』シリーズのBGMを創り続けたすぎやまこういちさんは、確かにクラシック音楽で名を馳せたバッハやベートーベン、ヘンデルやモーツァルト等と並ぶ、日本の立派な音楽家だろう。
人間の欲望を捨てれば、人間は余計な事をしなくなるだろう。
きっかり早く動く人を見た。この人は完璧主義者なのかなぁ、と思った。
ドラゴンクエスト2の遥かなる旅路のBGMを聴いてたら、教会に通って居た、火曜日を思い出す。夕暮れ。京都からバスと電車に乗って、大阪の鴫野まで。あのエレクトーンとピアノの練習の為。丁度その時に遅れ馳せながら、ドラゴンクエスト2をやってたから。あの苺の様な宝箱を見ると「中に何か有難い物が入ってないかなぁ?」と思って出来るだけ早く、一目散にそのフロアへ駆け寄って居た事や、あの王城や街の赤茶の煉瓦のタイル床を憶え、それも宝箱と同じ様に、何か感覚的に心が美味しそうに見えた事などを含め…。
男女共に、男女の性質を併せ持つ。或る男、女の性が突出して出て来たものだ。生霊系シリーズ。
大体、現代人は大袈裟すぎるのだ。その中に、嘘などもある。その場の勢いを、大事に取ろうとしてしまうのか。
歳は、その人の所為じゃない。
戦争行為。もともと大量殺戮を公認して、自分達の欲望を押し通そうとして居る訳だから、正義に対し、嘘をつくしか無いのである。誤魔化しばかりになるのもその表れである。
ユーチューブで「これぞ八〇年代!」と言うまとめ動画を見た。八〇年代も、結構やることやっとるね。「八〇年代はほんとに輝いてた!良い思い出しかない!」とか言う人が多いけど、美化してると思う。これも何でも極端に言う現代人の特徴の表れか。まぁそれだけではないと思うが。それにしても、俺も八〇年代真っ只中を生きて来たが、そんな事は無かった。どちらかと言えば今よりしんどい事がかなり多かったのだ。坂道を休みなく上り詰めさせられた記憶や、事件が甚だ多かった記憶(特に大阪住みの時)、とにかく虐められた記憶に、その虐めの経験が祟ってどこへ行くにも、誰と一緒になるにもオドオドしてた思い出、それに芸能界やメディア、また特に政治家には悪徳が非常に多かった事の記憶、そんなのばかりが渦巻く局面が確かにある。でもやっぱり懐かしさが勝ち、それでよく見ようとして居る正直はある。皆んな若かったし、自分も子供だったし、それ故のワクワク感や楽しさがあったのは本当。でも結構汚れた時代でもあったのだ。テロップ規制は殆ど無いし、誰も彼もがずけずけ物を言った。マスコミは人道を踏み外して当り前だし(それで自殺者が続出した程)、政治家が牙城を担って私腹を肥やし続けた時代でもある(この政治家の傾向だけは今でも続いて居るのかも)。サイケが流行り、八〇年代はめちゃくちゃだった。不良に憧れる者も多かったし(これも今と余り変わってないかも知れないけれど)、環境・福祉的にも今とは比較にならないほど地に落ちて居る。自宅ワークは無かったし、心療内科も精神科で設備は不足してたし、パソコンは無いし(今ほどの日用として)、スマホも無いし、これはそのまま不便極まりない時代ともなる。「スマホやパソコンが無くても楽しかった!」と言う人が、こんな動画を見てるコメント欄には本当に多いけど、俺はスマホやパソコンがあってくれた方が遥かに良く幸せだと思う。現代の利便を知った今だからこそそう言うのだろう。それを踏まえてもこの様に思う。でも風潮はまだ地に足ついて良かったかも知れない。格好良いものを格好良いと思え、悲しいものを悲しいと思え、喜ぶべき事を素直に喜べて、その時代(八〇年代)と俺の感覚は当り前に合って居た。この「当り前」が今は時に無くなるのを感じる。人と接する時に感じる。世間をテレビで観て感じる。群れの中に居て思う。これまでの平成に入ってからの経験が、本当に俺に如実にそう思わせて来るのだ。まさしく正直である。人間性は、昔の方に合って居た。周りが変わったのか、自分が変わったのか知らないけれど。少なくとも今、俺に「自分が変わった」と言う記憶は無い。大人目線に合わせてくれて居た事も、俺の好きな風潮に合って居たのだ。今の様に局面一辺倒の目線には無かった。
「八〇年代は今と違って、人が皆んな前を見て歩いて居た時代」。…いや皆んなでもないよ。結構下向いて歩いてた人も多かったよ。でもそう表現するのは良いと思う。
女は声色を本当に幾様にも変えられる。声が高いのが声域を、男とは比べ物ならないほど広げて居るのか…とも思った。声を自在に変えられる、その強みがある。ずるい(笑)。
『夢時代』は或る種、幼年が書(描)いてる様な作品である。幼年が誰にも邪魔されず、得意になって書(描)いてる。
調べようが無い事を、プライベートクイズと言う。
人を愛する事。神様のもとで、これを学ばなければ成らない。
やっぱりガロ(バンド)はちょっと別格。当時のレトロ、懐かしさの少し上にある感じ。一年くらい前に記したこと。
子供の過ごす一分が、大人が過ごす一年になる?その子供の時間と、その時間・経過から成る影響と、その影響による成長が羨ましい。自分も通ったくせに羨ましいのだ。子供の時間の過ごし方が羨ましいのか。
前に記したかも知れないけれどもう一度記す。子供は感覚で理解し、表現する。大人の様に言葉で説明したり出来ないだけで、確かに恐ろしい程に感覚で理解し、それを表現できる。ブワーっとかざーっとかダーッとか擬音語も混じるが、既に子供の中でインプットされたかの様に理解して、それは大人から見えない。この子供の理解力と表現力だけで作品を量産したいと思える程、それは貴重で価値があると信じる。
夜じゃなく、昼特有の怖さと言うのがある。
歌。歌を聞いたあの時。若い時…俺のキラー・クイーンがあったのさ。
キラー・クイーンは遊び心で歌うのが良い。
若さに縋り付こうとする時期がある。
人は自分のDNAの情報もよく分からないのだ。自分の親がこうだからと言う程度にしか。
女の子が、人を増やして生く。本来、平和の内に人を増やして生くのだ。
心のチューニングポイントが合わないと、その人と楽しく話は出来ないものか。これもこれ迄に学んで来た教訓にある。
他人を、自分の部屋の中だけで用意し、誰にも見せず、その世界だけで空想も愛着も、その人を好きだと言う行為も、絆も終わらせて行くのか?誰もが抱える、独り部屋での言動と外の言動との壁。やはり打ち崩せぬものか。その空想の相手にすら、知られたくない言動を取って居る故に。
雨にも濡れず、風にも吹かれず…。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は大好きだった。夢が溢れて居るからである。
「人のために自分を犠牲にする愛は非常に尊いけれども、その行為、またその行為から得られる幸せを、なかなか人は手にすることができない…」本作の「ほんとうの幸せ」にまつわる主張とは、たとえばこのようなことを言っているのではないでしょうか。
…昔、ウェブの記事で、こんな事を俺は書いて居た。もう忘れて居た事。
地球上の全ての人の一つ一つの努力を、何か一つの目的に向かって積み上げて行けば、どれ程の量に成るだろう。
「人間失格」とか言ってる暇があったら、親孝行しろよ。「人間失格」などは人が言う言葉で、神様は既にその人に「人間合格」を与えて居る。
やはり此処には、無難な事しか書けない。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬




