第16話 恋人ごっこがもたらす我々の心情の変化についての事象
「悪かったって。で、勉強進んでるのか?」
美千瑠も室内前方から注がれる冷ややかな視線に気が付いたのか、声を潜めて返答する。
「進んでないから困ってるの」
美千瑠は頬を膨らませながら、先程まで睨み付けていた数学の問題集をこちらに寄越す。
「どれどれ」
俺はそれを受け取りながら、さっと目を通した。
当然昨日みんなで勉強したときよりも進んではいるのだが、その進みはかなり遅いようであった。このペースで問題を解いているようでは、当然期末テスト本番までに試験範囲の復習は終わらないし、試験本番もテスト問題を解き終わることなく時間切れになりそうである。
しかし、解答は概ね合っている。多分、コツさえ掴めればすらすら解けそうなものなのだが……。
俺は試しに美千瑠が解いていた問題集の次の問題を解いてみる。
問題文を見、式を見、どの公式を当てはめていくのか即座に判断し、解答欄を埋めていく。
そこでふと思った。
「美千瑠」
「なに?」
まだ少し怒っているのか、不満そうな声色が返ってくる。俺はそれに構わず、淡々と勉強の話を進める。
「もしかして、どの公式を使ったらいいか分からなくて時間を食ってないか?」
「え、どうして分かったの?」
俺の言葉に、美千瑠は驚いたように目を瞬かせる。
「問題を見ただけだと、どの公式を使ったらいいのか分からなくて……。特に単元の終わりの練習問題って今までの総復習って感じでごっちゃになってるでしょ? だから余計にどの式を使っていいのか分からないんだよね……」
やっぱりそうか。回答はほぼ合っていることから、解くのに時間が掛かっているわけではなさそうな気はした。使う公式さえすぐに分かってしまえばあとは回答まで流れていくだけだ。
勉強を誰かに教えるなんてこと、俺は今までしてこなかった。故に何が分からず、どこで躓き困ってしまうのか、いまいち理解出来なかった。今やっと、美千瑠の先生(自称)として手応えを感じた。きっとこれなら問題を解く速度も上がるはずだ。
俺は顔を上げると、美千瑠に視線を向ける。
「なぁ、美千瑠って、暗記は得意か?」
「え? 暗記?」
暗記と言えば文系科目に必須というイメージがある。世界史であれば国の名前や位置、国旗を覚えなきゃいけないし、英語や古典だって単語の意味が分からなければ問題を解くことは難しいだろう。
数学だって同じだ。
「まず出題傾向と公式をセットで覚えてくれ」
「え……」
「例えば、分配法則なら展開するのには二つのパターンがある。大体このパターンの問題しか出ないから、式を展開せよ、と言われたらこの二つの公式だ」
俺は美千瑠の問題集の端に、二つの公式を書く。
俺が数学が得意でそもそも詰まったことがないのは、多分出題傾向と公式を丸暗記しているからだ。故に問題を見ただけですぐにどの公式を使えばいいかも分かるし、使う公式さえ分かればあとは当てはめるだけなので案外すんなりと解けるものだ。
つまり勉強はほぼ暗記で乗り切れるのだ!(俺のやり方ですのであしからず)
ふんふんと聞いていた美千瑠だったが、自信なさそうにぽつりと呟く。
「凍華の言いたいことは分かるけど……暗記かぁ……自信ないなぁ……」
「美千瑠って、古典や英単語は覚えるのは得意な方か?」
古典と英語ならすでに授業内で小テストが行われていた。
「そこまで得意ってほどじゃないけど……数学よりはマシかなぁ。単語帳作ったりもして覚えてるんだけど……」
「なら同じように叩き込め。数学の単語帳を作れ」
「うーん、とりあえずやってみるよ」
弱きになっているのか心底数学のテストが不安なのか、俺の命令口調もスルーし美千瑠は早速公式をまとめ始めた。
せっかく一緒に勉強したのだから、どうせならいい点を取らせてやりたい。もっと他にいい勉強方法はないだろうか。
「うーん……」
俺が教科書をぱらぱら捲りながら悩んでいると、美千瑠が不意に言う。
「凍華って、なんだかんだ面倒見いいよね?」
「は? そうか?」
「私のためにわざわざ勉強教えてくれるし。結構むきになって教えてくれるじゃん」
それはこの俺が教えたことによって点数が取れなかったんだ! などと後で文句を言われないためでもある。美千瑠の場合、自分が点数取れなかったことへの捌け口に俺を使うに違いないからだ。「凍華の教え方が悪かったから!」みたいな……。
そう思ったことを口にしようとしたのだが、美千瑠が口元を緩ませてこう言った。
「もしかして、私が彼女だから?」
「え?」
「勉強教え合いっこするのって、恋人同士はよくやってることでしょ? だから凍華も私のために頑張って教えてくれてるのかな? って」
「……そうだよ? だって俺達恋人だろ? これくらいは普通」
世のカップルが勉強の教え合いをしているのかは分からないが、勉強とかこつけていちゃいちゃしているイメージはあるな。偏見だけど。
俺の返答に満足そうに笑う美千瑠。
「凍華もなんだかんだ恋人ごっこ楽しんでるんじゃん」
「……まぁな」
恋人ごっこを楽しんでいる、というよりは美千瑠とこうやって二人でだらだら過ごすのがなんだかんだ楽しいのかもしれない。
そんなことを考えていると、美千瑠がすっとこちらに身を寄せて来た。それは触れるか触れないかくらいの距離ではあったのだが、いきなり距離を詰められた俺はびっくりして声を上げてしまう。
「うおっ、なんだよ急に」
美千瑠の顔が間近にあって、急に香ってきた花のような匂いが俺の鼻腔をくすぐった。
「図書室ではお静かに、だよ?」
随分と上機嫌な美千瑠は、また数式へと向き合っていった。
恋人ごっこを始めてから初めて会ったときのような美千瑠の笑顔をよく見るようになったのは、きっと気のせいではないだろう。




