第6話「密使の影」
世界樹の根元で始まった小競り合いは、やがて沈静化した。
紅月国の斥候たちは草の蔓に足を取られ、湧き水に押し流され、傭兵たちに追い払われていった。
残されたのは、兜を脱いだひとりの兵士。
まだ息を荒げながらも、彼の目は澄んでいた。
剣を俺に向けることなく、膝を折り、低く囁く。
「俺の名はカイル。紅月国より派遣された斥候隊に身を偽って加わっている。だが真の目的は、この地を“守る”ことだ」
傭兵たちが剣を構えて取り囲む。
「罠じゃないのか?」
「仲間割れを装って油断を誘うつもりだろう」
俺は手を挙げ、彼らを制した。
世界樹の葉がひとひら舞い落ち、俺の肩に触れて消える。
その瞬間、不思議とわかった。――この男は敵ではない。
「話を聞かせてくれ」
俺の言葉に、カイルは静かに頷いた。
「紅月国は確かに世界樹を欲している。だが、すべての者がそうではない。国内でも派閥が割れている。軍を率いる将軍たちは樹を征服の道具と見なすが、一部の学者や文官たちは、生命の象徴として守ろうとしている」
「お前は……後者の側なのか?」
「そうだ」
カイルの瞳には迷いがなかった。
「俺は王命を装い、斥候に紛れてここへ来た。本当の使命は、世界樹を守る者を見極め、協力することだ」
その言葉に、傭兵や村人たちがざわめいた。
カサンドラが鋭い目で彼を見据える。
「信用できるかどうかは別問題だな。紅月国の人間である以上、いつ裏切るかもわからん」
「承知している」カイルは即答した。
「だが、俺には時間がない。紅月国は近く大軍を動かす。ここを奪うためにな」
空気が凍った。
村人たちの顔が恐怖に染まり、子どもが母親の裾にしがみつく。
「……大軍?」
俺は思わず聞き返す。
「二千の兵だ。最初の標的は、この畑だろう」
胸の奥がざわついた。
勇者リオンだけでも脅威なのに、今度は紅月国の軍勢。
鍬を握る手に汗が滲む。
「どうすればいい」
気づけば、俺はそう尋ねていた。
カイルは答えを用意していた。
「紅月国の中でも、戦を望まぬ者は多い。俺が戻って合図を送れば、進軍を遅らせることはできる。その間に、お前たちは……この地を固めろ」
「固める……?」
「畑をただの畑から、砦へ変えるのだ。世界樹の加護を利用すれば不可能ではない。道を狭め、根を壁にし、水脈を堀に変える」
言葉を聞きながら、俺は思わず畑を見渡した。
確かに、世界樹の根は地面を走り、蔓は壁のように広がりつつある。
水脈は光を帯び、地下に網のように広がっているのを感じる。
「……畑を、砦に」
信じられない話だった。
だが、芽吹きの奇跡をこの目で見てきた。
ならば――世界樹ならば、本当に可能かもしれない。
カサンドラが低く息を吐いた。
「紅月国の密使と手を組むなど、本来ならあり得ない。だが……現実的にはそれしか道がないかもしれんな」
俺は彼女を見た。
「カサンドラ。王国はこの地を守る気があるのか?」
問いに、彼女はわずかに目を伏せた。
「正直に言えば……王国はまだ迷っている。勇者を優先するか、王権を優先するか。お前を守ることは、まだ決定されていない」
その答えに、胸が締めつけられた。
結局、頼れるのは自分と、この畑、そして――集まってくれた人々だ。
カイルが膝を折り、俺に視線を合わせる。
「アレン。お前が本当に世界樹を守る覚悟を持つなら、俺は命を懸けて協力しよう」
その目は真剣で、言葉には一点の迷いもない。
俺は深く息を吸った。
頭上で枝葉がざわめき、光が降り注ぐ。
それはまるで、答えを促しているかのようだった。
「……わかった。協力しよう。畑を砦にする。ここを守る」
その瞬間、世界樹の根が大きく鳴動した。
大地が震え、葉が舞い、光が人々を包み込む。
それは、俺たちの誓いを世界樹が受け入れた証のようだった。
つづく。




