第52話「旅立ち──砦を離れて」
1. 門を出る朝
夜の名残をわずかに抱いた砦の石垣を背に、俺は立ち止まった。
色鈴が一度だけ、止めでちりと鳴る。
門の前に広がる大地は、まだ誰の名も持たず、足跡も少ない。
東に淡い光が差し、世界樹の枝が遠い空に影を落とす。
「ここからは、一人で行くの?」ロナが粉袋を抱えながら尋ねた。
「いや。行く先々で座を作り、返しを探す。俺ひとりの道じゃない」
ロナは目を細めて頷くと、掌を掲げた。そこには粉の白さと、砦の温かさが宿っていた。
「粥は必ず残る。途中でやめても、温め直せば続く」
カサンドラは板葉に最後の署を残し、俺に渡す。「終わりは来ない。ただ、次の拍があるだけ」
ラグは鍬を軽く振って笑う。「耕せ。耕して、途中でやめろ。それが道だ」
ミレイユは声を出さず、口の形だけで「粥がいい」と示した。影が地に落ち、未来への合図となった。
俺は荷を背負い、門の影を踏み越えた。
湧き水の脈が胸に響く――返しは静かで、しかし確かに次を促していた。
2. 無名の野を歩く
砦を離れると、大地はゆるやかに波打っていた。
草は低く、石はまばら。鳥の声も風に消え、ただ拍が土の奥で淡く鳴る。
歩みを進めるごとに、不思議なことがあった。
俺が息を吸う前に、胸の奥で微かに温もりが広がる。
鍬を持ち上げる前に、掌に手応えの影が走る。
「……未来の拍?」
足元の石を蹴ろうとした時、影が先に弧を描き、遅れて石が飛んだ。
未来から返る拍――“予告の返し”。
砦で見たことのない新しい座の気配が、ここには漂っていた。
3. 予告の村
野を抜けると、小さな村に辿り着いた。
屋根は低く、柱に札が掛けられている。そこには「明日の挨拶」「来週の謝罪」と墨で書かれていた。
子どもが走り寄り、声を発する前に未来の声が先に耳に届いた。
「旅の席守さん、ようこそ。今夜、お粥を出します」
その直後、子どもは同じ言葉を口にした。
村人は言った。「ここでは言葉も仕草も一歩先に返る。私たちはそれを“予告”と呼ぶ」
先に届く返しがあるからこそ、人は備えることができる。
だが、完全に先を知るわけではない。半歩だけ前――それがこの土地の掟だった。
4. 席の試み
村の広場で席を組んだ。
半杭を打つ前に、掌に先の手応えが返る。
そこで俺は杭を完全に打たず、途中で止めた。
布を広げると、風が吹く前に端が揺れる。俺は折り返しを残し、余白を作った。
色鈴を吊すと、鳴る前に薄い響きが耳に触れた。
「これが予告音か……」
未来の返しを受け止める座が、ようやく形になりつつあった。
5. 規の制定
一、名を呼ぶ前に息を置く。
二、粥を口に運ぶ前に湯気を布に写す。
三、言葉は言い切る前に止め、予告に場所を与える。
四、結びは締め切らず、ほどかず、途中で留める。
これを村人たちは「前途の規」と呼んだ。
赤子の名を呼ぶと、母の声より先に布の影が揺れ、赤子が笑った。
「予告があるから、手を柔らかく差し出せるのだ」と長老は言った。
6. 粥の予告
村人と共に粥を炊いた。
湯気が布に影を落とし、器を口に運ぶ前に胸が温かくなる。
先に温もりを知り、後から味を得る。
「……粥が」
俺が口を開く前、耳の奥で「いい」が響いた。
「粥がいい」
遅れて出た声と、先に届いた返しが重なり、確かな温度を残した。
未来は怖くない。怖いのは未来がないことだ。
この土地では、未来は半歩先に、粥の湯気のように漂っていた。
7. 予告市
翌日、市が立った。
商品は影が先に並び、遅れて実物が置かれる。
秤は「先重さ」を示し、支払いは「先払い」で余白署に刻む。
「不思議と、不正が起きにくい」と村人は言う。
先に受け取り、後で渡す。先に謝り、後で失敗する。
前の返しが人を柔らかくするのだった。
だが、市の端で騒ぎが起きた。
「祭の供物が盗まれた!」
器から粥米の先影だけが消え、実米の味が落ちたという。
俺は鍬と布を使い、検拍を始めた。
声――返りは先に濁る。
沈黙――布の影が透ける。
逆――「きさ」が「さき」に崩れる。
重ね――二度目の呼びで影が薄くなる。
数――三で止めると欠けは三分の一。
再開――影の端が戻る。
記憶――昨日の器にも同じ欠け。
「盗んだのは未来を急ぐ手だ」
未来を全部先に掴もうとした者が、影を失わせた。
村人はその手を諭し、器を布で包んで返した。
未来を急ぎすぎると、今を壊す――そのことを皆が知った。
8. 別れと再出発
数日後、俺は村を離れることにした。
長老は粥米の袋を渡し、「未来は半歩だけ先にある。残りの半歩は、自分で置け」と言った。
子どもたちは「粥がい」と先に叫び、遅れて「い」と結んだ。
笑い声が影になり、空へ消えた。
門を出る時、湧き水の脈が胸を叩いた。
返りは先に鳴り、後で強く響く。
未来から返る拍が俺を導いていた。
――砦を離れて初めての旅立ち。
道はまだ長い。だが確かに次の拍が待っている。
9. エピローグの兆し
夜、野営の火を囲み、俺は最後の粥を椀に盛った。
湯気が先に影を作り、後から温かさが広がる。
「……粥がいい」
声と予告が重なり、胸にひとつの響きが残った。
世界樹の枝が遠くで揺れる。
砦を離れても、座は続いていた。
未来から返る拍を抱き、俺はさらに歩き出す。
その先にあるのは、まだ知らぬ土地、まだ置かれていない座。
だが確かに誰かが言うだろう。
粥がいい――と。
つづく




