第5話「炎の前触れ」
紅月国の使者ジルベルトが去った後も、世界樹の根元には不安が残っていた。
村人たちは口々に囁き、ざわめきは焚き火の煙のようにまとわりつく。
「紅月国が来るなんて……」
「王国と勇者だけでも怖いのに、隣国まで……」
「アレン様、本当に大丈夫なのですか?」
俺は人々を見渡した。老婆、子ども、傭兵、旅人。皆がこの場所を頼りにしている。
その視線に押されるように、鍬を握り直した。
「大丈夫だ。……俺は、ここを守る」
震える声だった。だが、枝葉がざわめき、光の粉が降り注ぐ。
その温かさが、俺の言葉に力を与えてくれる。
その夜。
世界樹の影で、カサンドラと向き合った。
彼女の表情は険しい。
「アレン。お前の覚悟は立派だ。だが、それだけでは足りん。王国と紅月国、両方がこの地を狙っている。武力を持たぬままでは、民を守ることはできない」
「……武力、か」
思わず鍬を見下ろした。俺の手にあるのは農具であり、剣ではない。
だが、今日までこの鍬で畑を耕し、人を救ってきた。
「俺は戦いたいんじゃない。守りたいだけなんだ」
俺の答えに、カサンドラは目を細めた。
「だからこそ武力が要る。守るためには、攻め込む者を退けねばならない」
彼女の声には冷徹な現実が滲んでいた。
その会話を遮るように、夜空を裂く光が走った。
遠くの山際で、炎が上がっている。
「……火事?」
傭兵の青年が駆け寄る。だが、すぐに首を振った。
「違う! あれは……狼煙だ!」
狼煙――軍の合図。
紅月国のものか、王国のものか。どちらにせよ、戦の影が迫っていることは明らかだった。
村人たちが悲鳴を上げ、子どもが泣き出す。
俺は胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、そのざわめきと同じく、世界樹の枝葉もざわめいた。
ざわ……ざわ……。
葉が舞い、湧き水が光を放つ。
「……守れ、ってことか」
俺は頷いた。
翌朝。
森の向こうから、鎧のきしむ音が近づいてきた。
王国の兵ではない。鎧には紅月国の赤い紋章が刻まれている。
「紅月国の斥候だ!」
傭兵が叫ぶ。
十数名の兵士が現れ、畑を見て嘲笑を浮かべた。
「これが噂の世界樹か。……なるほど。だが、守りは薄いな」
剣が抜かれる。
村人たちが怯えて後ずさる。
俺は一歩前に出て、鍬を構えた。
「ここは……俺たちの畑だ。踏み荒らさせない」
兵士たちの笑いが広がる。
「農夫が何を言う」
「すぐに首をはねてやる」
その瞬間、世界樹が応えた。
地面から芽が伸び、兵士の足を絡め取る。
湧き水が噴き出し、剣を弾いた。
光の粉が舞い、兵士たちの目を眩ませる。
「な、なんだこれは!?」
驚く兵士たちの隙を突き、傭兵たちが飛び出した。
「アレン様に続け!」
「畑を守れ!」
剣と鍬がぶつかり合い、世界樹の影で小さな戦いが始まった。
混乱の中で、俺の視線はひとりの兵士に釘付けになった。
他の兵と違い、彼の剣は俺を狙っていない。
むしろ、仲間の刃をわずかに逸らしていた。
やがてその兵士は兜を脱ぎ、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「……俺は敵ではない。紅月国から来た密使だ。世界樹を守りたいなら、俺を信じろ」
目は真剣だった。
俺は息を呑む。
敵の中に、協力者がいる――?
つづく。




