第44話「南東の谷──幾度の返し」
1. 谷の入口――幾重の声
荒野を抜け、南東へと進むと、大地は急に沈み込み、深い谷が広がっていた。
その谷は幾つもの層に重なり、崖が折り重なって迷路のように入り組んでいる。
一歩踏み入れるごとに、声が幾度も返る。
「おーい!」ラグが試しに声を放つ。
その声は「おー……い……い……い……」と幾重にも分かれて谷に響き渡り、最後はまるで別人の声のように戻ってきた。
「一度が十にも百にも増幅される……」ロナが目を細める。
湧き水の脈に掌を沈めると、指先が重なりあう波に打たれた。最初の拍はすぐに来るが、次の拍が遅れて幾重にも重なり、やがて山鳴りのような返しになる。
「ここでは、一度の行為が無数に返る」カサンドラが板葉を閉じる。「返しの洪水に耐えられる席が必要だ」
2. 谷の村――幾度も繰り返す暮らし
谷底には小さな村があった。
人々はひとつの言葉を三度以上繰り返してから会話する。
「粥、粥、粥」
「いい、いい、いい」
そうしないと、返ってくる声のどれが本物かわからなくなるのだ。
村人の一人が語った。
「昔、子どもが“母さん”と一度だけ呼んだ。だが返る声が百にも千にも増えて、どれが本当かわからず、子ども自身が声の迷路に呑まれた」
だから村人たちは、必ず言葉を三度以上繰り返し、幾重の返しに埋もれない印を残す。
3. 席の試み――増幅される座
俺たちは席を作ろうとした。
葦の脚を打ち込む音が「トン……トン……トン……」と延々返り、脚は揺れて立たなかった。
布を広げれば、風の音が無数に増幅され、布は裂けそうに震えた。
色鈴を吊ると、一度の音が何十にも重なり、最後には耳を裂く轟音になった。
「そのままでは座が崩れる」テールが糸を掴む。
「増える返しを数で制御するんだ」ミレイユが提案した。
4. 多重の規
一、名も言葉も三度繰り返す。
二、粥は三度に分けて食し、最後は三匙残す。
三、文字は三度重ねて記し、最後の行を余白にする。
「返しが幾度でも、三度で区切れば混乱しない」カサンドラが説明する。
試すと、確かに声は増幅される。
だが「粥が」「粥が」「粥が」と三度唱えれば、返る声の波の中で三つの声が揃って響き、最後に「……いい、いい、いい」と続いた。
「粥がいい」
三度がひとつにまとまり、確かな声となった。
5. 三重の粥
粥を炊き、三つの椀に分ける。
最初の椀はすぐに食べ、二つ目は十拍待ち、三つ目はさらに十拍後に口に運ぶ。
味は変わらず、むしろ三度目の粥は最初より温かく感じられた。
「三度に分けることで、粥は深みを持つ」ロナが微笑む。
「粥が」「粥が」「粥が」
「いい」「いい」「いい」
幾度もの返しがあっても、三度の声が合わさればひとつの響きになる。
6. 谷の盟
席に刻む。
谷の盟
一、名も言葉も三度繰り返す。
二、粥は三度に分けて食し、三匙を残す。
三、文字は三度重ねて署し、最後は余白にする。
四、返しの洪水を恐れず、三度をもって拍とする。
署名は三枚の紙に書き、重ねて座に置いた。
7. 王都と紅月の適応
王都の官は帳簿を三部作り、同じ内容を三度記した。
誤りは消え、三度の数字が重なり、堅牢な記録となった。
紅月の祈祷師は祈りを三度に分けて唱えた。
朝に始め、昼に繰り返し、夜に結んだ。
その祈りは幾度も反響したが、最後には澄んだ一声となって返った。
8. 偽の一度
夜、谷の奥から「一度で足りる」と囁く声がした。
若者が一度だけ名を呼んだ。
返りは無数に増幅され、名前は百の声に裂けて消えた。
俺たちは急ぎ三度呼んだ。
「アリ」「アリ」「アリ」
返る声は「ス」「ス」「ス」と重なり、ひとつの「アリス」となった。
「三度でなければ、本当の名は返らない」
9. 谷の祠
谷の中央に祠があった。
石段は三重に積まれ、扉は三枚。
最初の扉を開けると風が吹き、二枚目を開けると声が返り、三枚目を開けると粥椀が三つ並んでいた。
俺たちは粥を三椀に盛り、それぞれに一匙残した。
祠は震え、谷全体が三度鳴り、「粥がいい」という声が一つになった。
10. 砦への返歌
砦に戻ると、湧き水の脈は三度に分かれて返り、最後にひとつに揃った。
色鈴も三度鳴り、三度目の音が最も澄んでいた。
「三度で一度に戻る……」カサンドラが記した。
「粥が」「粥が」「粥が」
「いい」「いい」「いい」
重なり合った声は、静かに温かさを残した。
11. 次の拍
世界樹の枝葉が三度揺れた。
「東方の丘……無数の返しを重ねすぎる土地だ」
ロナが粉袋を握る。「数が多すぎれば、拍は崩れる」
俺は椀を三度に分けて飲んだ。
味は重なり、胸に深く響いた。
粥がいい。
三度の声がひとつに戻る、その確かさだけが残った。
つづく




