第40話「東南の鳴砂野──沈黙の楽譜」
1. 鳴く砂
砦から南東へ向かう道は、石を踏めば歌う砂に変わった。
一歩ごとに「ギュッ」と高い声。次の一歩は「ゴロッ」と低く返る。
俺たちはすぐに気づいた――この土地では、音がすべて楽器になる。
「声を出せば、砂が増幅して呑み返す」ロナが膝をつき、砂粒を掌に広げた。
耳を澄ませば、遠くの丘で砂が合唱している。誰も歌っていないのに。
「ここは“音を返す前に呑む”土地だ」カサンドラが顔を上げる。「沈黙で楽譜を書かねば」
2. 鳴砂の村
砂丘のふもとに、人の営みがあった。
村人たちは声を潜め、歩く時も布靴を履いて音を殺す。
家々は丸天井で、壁の中には砂袋が詰められていた。
「歌う砂を封じるためだよ」村長は小声で言った。「音が抜ければ、夜には家ごと呑まれる」
子どもたちは短い竹筒を持ち、筒の中に砂を詰めて口を閉ざす。**“沈黙の笛”**と呼ばれているらしい。
3. 席の失敗
いつもの席を組もうとすると、葦を打ち込む音が砂に呑まれ、即座に合唱が始まった。
布を広げる音すら拡張され、三歩離れた仲間の耳を震わせる。
「駄目だ、音が音を呼ぶ」テールが糸を構えた瞬間、結び目の擦れる音が砂を震わせ、座が傾いだ。
「静かにしても、準備の音で呑まれる」カイルが低く唸る。
沈黙こそが唯一の拍。ならば、無音を楽譜に変えるしかない。
4. 無音譜
ミレイユは余白紙を広げ、指で砂を払って印を刻んだ。
「ここでは“出さない音”を記録するの」
彼女が描いたのは、沈黙の譜面。
縦の線は歩幅。横の線は息の止め。丸い印は影を落とす位置。
「歌う代わりに、沈黙を合わせる。音を出さずに楽を奏でる」
皆がその譜に従い、呼吸と歩調を刻む。
砂は反応しない。いや、むしろ砂の合唱が後退した。
「沈黙が勝つ……」ロナの声が、初めて呑まれなかった。
5. 粥の実験
湯を張った鍋を砂の上に置く。
湯気が砂丘に広がり、細かい粒子を濡らす。
匙を沈める音すら危ういので、俺たちは息を止めて器に粥を移した。
食べる瞬間――器の中の湯気が砂を鎮めた。
「湯気の湿りが、砂の声を吸う」ロナが呟く。
「粥がいい」
その一言だけは、砂に呑まれなかった。
村人たちは信じられない顔をした。「言葉を出せた……!」
6. 鳴砂の盟
座に短く刻んだ。
鳴砂の盟
一、音を出さず、沈黙で譜を刻む。
二、歩幅と息を揃え、沈黙を合唱とする。
三、粥は湯気を立て、砂の声を鎮める。
四、言葉は一拍だけ許される――“粥がいい”。
署名は影で置き、声では呼ばない。
7. 王都と紅月の策
王都の徴税官は声を使えず困っていた。
そこで砂税という新しい仕組みが決まる。
昼に沈黙の譜で歩数を記録し、その数を税に換える。
紅月は息祈を出した。祈りを声でなく、呼吸の拍で捧げる方法だ。
席で両者を試すと、砂は沈黙を尊ぶようになり、夜の合唱は弱まった。
8. 鳴砂の夜
その夜、砂丘の奥から偽の歌い手が現れた。
「歌えば砂は従う!」と叫び、太鼓を打つ。
だが一打ごとに砂は合唱を増し、ついに歌い手自身を呑み込んだ。
残ったのは沈黙だけ。
俺たちは無音譜を布に刻み、歩幅を揃え、影の署を押した。
砂は静まり、村は眠れる夜を取り戻した。
9. 砦への返歌
砦に戻ると、色鈴は一度も鳴らずに止めで光った。
湧き水は静かに脈打ち、沈黙の中で深く返した。
「沈黙の楽譜は砦にも効く」シアンが余白印を布に押す。
「粥がいい」
静かな返事に、皆が頷いた。
10. 次の拍
世界樹の枝葉が、今度はざわりと鳴った。
「北の氷河だ」カサンドラが告げる。「音も影も凍りつく土地」
ロナが粉袋を握りしめた。「凍る前に返す拍が要る」
ミレイユは沈黙の譜を閉じ、氷の譜の余白を開いた。
俺は椀に残った粥を啜り、湯気の影を見上げた。
拍は沈黙の奥から確かに返っていた。
粥がいい。
言葉は短く、沈黙は深かった。
つづく




