第4話「使者と囁き」
勇者リオンの軍列が砂煙を残して去った後、世界樹の根元には静けさが戻っていた。
けれど、その静けさは決して平穏ではない。
風の音の合間に、人々の囁きが聞こえてくる。
「……勇者殿を退けたぞ」
「世界樹は、この方を守っているんだ」
「王国と勇者の間で、どうなるのだろうか」
民の視線は俺に集まっていた。
ただの“役立たず”だったはずの俺に。
その重さに胸が圧される。だが、不思議と膝は震えなかった。世界樹の葉が風に鳴り、背中を支えているように思えたからだ。
「アレン」
呼んだのはカサンドラだった。王国行政院第三使節の女。
鋭い黒髪と瞳、冷徹な声。それでも、わずかに滲む疲労が見えた。勇者との対峙は、彼女にとっても計算外だったに違いない。
「今の一件で、王国の立場は難しくなった」
「……難しく?」
「勇者が世界樹を必要とすると言い切った以上、王国は彼を無視できない。だが、民衆の目はすでにお前に向いている。王は、お前を排除することもできなくなった」
彼女の言葉は氷のように冷たいが、その裏に真実が潜んでいた。
俺は握りしめた鍬を見下ろす。
「俺は……ただ畑を耕したいだけなんだが」
呟くと、カサンドラはかすかに笑った。
「それならば、なおさら覚悟を決めろ。畑を守るには、政治と権力に立ち向かわねばならん」
その夜。
世界樹の影の下で、俺は火を焚いた。村人や旅人が寄り添い、湧き水を分け合う。
老婆は咳が消え、子どもは眠そうに目をこすっている。
日中に芽吹いた花の香りが風に漂い、焚き火と混じり合った。
「アレン様」
声をかけてきたのは若い傭兵だった。肩に古びた鎧を乗せ、腕には傷跡が残る。
「俺たちもここに残りたい。勇者殿のやり方にはついていけねえ。だが、アンタのもとなら……」
その目は真剣だった。
俺は返事に迷った。仲間を受け入れることは責任を背負うことだ。
だが、世界樹の枝葉が再びざわめいた。
その音に背を押されるように、俺は頷いた。
「……いいだろう。一緒に耕そう。ここは、もう俺ひとりの畑じゃない」
傭兵の顔に安堵が広がった。
それを見て、俺も少しだけ笑えた。
翌朝。
陽が昇ると同時に、新たな影が畑を訪れた。
豪奢な衣を纏い、赤い羽飾りを頭に差した男。数名の従者を従えている。
彼は誇らしげに顎を上げ、俺と世界樹を見渡した。
「これが噂の世界樹か。ふん、見事なものだな」
従者のひとりが声を張り上げた。
「紅月国よりの使者、ジルベルト様である!」
紅月国――。
王国の東隣、常に領土を狙う強国だ。
その使者が、なぜここに?
ジルベルトは巻物を広げた。金の印章が押されている。
「我が主よりの書状だ。……白風国を紅月国の庇護下に置く、とな」
ざわめきが広がる。
庇護――その言葉は甘い響きを持ちながら、実質的には併合を意味する。
カサンドラの表情が険しくなった。
「使者殿、ここは王国の領土だ。勝手なことを――」
「勝手?」ジルベルトは笑った。
「世界樹が芽吹いたのだぞ? もはやこの地は人類すべての宝だ。庇護を申し出るのは当然であろう」
彼の視線が俺に向けられる。
「アレン殿とやら。お前がこの樹を育てたと聞く。王国に仕えるより、紅月国に庇護されるほうが、ずっと安泰ではないか?」
村人たちが不安げに俺を見る。
王国も勇者も、俺を利用しようとする。
紅月国もまた、甘い言葉で囲い込もうとしている。
俺は返答に迷った。
だが、そのとき世界樹の枝から、また一枚の葉が舞い落ちてきた。
光を帯びた葉は、俺の手に触れて溶ける。
温かさが胸に広がり、迷いが晴れる。
俺はジルベルトを見据え、静かに言った。
「俺は……どこの国の庇護も望まない。ここは畑だ。世界樹の根元で、人々が生き、笑える場所にする。それ以上も、それ以下もない」
ジルベルトの笑みが消えた。
彼は冷たい目で俺を睨み、巻物をしまい込む。
「……その言葉、後悔するなよ。紅月国は諦めぬ。世界樹は必ず我がものにする」
従者を従え、使者は去っていった。
残された空気は重苦しく、村人たちの顔には不安が浮かんでいる。
俺は鍬を握り直した。
世界樹の枝がざわめき、葉の影が俺を包む。
「……大丈夫だ。俺たちで守る」
声に応じるように、湧き水の面が光を放った。
その光を見つめながら、俺は改めて心に誓った。
王国の思惑も、勇者の剣も、隣国の野望も。
すべてを退けて、この畑を守り抜く。
世界樹と、人々と共に。
つづく。




