第33話「枝の外──神話の席」
1. 枝の上の風
夜明け前、世界樹の幹はまだ眠たげに鳴っていたが、最上の枝先だけが内側から明るむように脈を返していた。
ロナが耳を幹に当てる。「ここより上は、祈りも歌も名の前に置かれる領分――“神話の層”だ」
カイルが鍬を握る。「名の前に置かれた話は、刃より速い。決まったことにされる」
「だから、先に席を置く」カサンドラが言い切った。「語りの前に“場”を作れば、神話も間を持つ」
俺たちは最小編成で登る。俺、ロナ、カイル、ミレイユ、テール、シアン。ラグは地上で“落ちるもの”の受け役。
空の布、色鈴、掌印の石、葦の軽枠――これまでの席の断片を束ねて、枝の外に持ち出す。
2. 空より外へ
樹冠は雲より高い。
風は音を持たず、視線だけが走る。
枝先からさらに外――葉の影が途切れた空白へ、テールが葦の軽枠を滑らせた。
四隅に色鈴。中央に白布。脚の代わりに凧糸と掌印石。
「名のない重さを、名のない高さに繋ぐ」ロナが掌印石を撫でる。
布が張られた瞬間、目に見えない“物語の風”がぶつかった。
白布の上にまだ書かれていない紋が、ぼんやり浮いては消える。
「先に決めようとしてくる」ミレイユが息を呑む。「“英雄が降りてくる”“世界樹が折れる”――そういう筋が、勝手に寄ってくる」
シアンは筆を抜かず、ただ白布の角に余白の印を小さく押した。「削る前の約束だけは残す」
3. 神話の座規
席が場になるには、規が要る。だが、ここで「書く」とたちまち神話に盗られる。
俺たちは動きと言葉の欠片で規を流した。
一、名の前に“間”を置く(旗を一拍遅らせて返す)。
二、決まってから語らない(白布に触れた手を必ず離す)。
三、余白を残す(角の印に触れたら、その筋は一度ほどく)。
カイルが旗を上げ、ミレイユが手旗を半拍遅らせて下ろす。
その「遅れ」が、押し寄せる神話の筋にしわを作った。
しわは裂け目ではない。話の間だ。そこへ席の「誰のものでもない」が染み込む。
4. 最初の“神話”
ほどなく一つが乗ってきた。
――“世界樹の頂で、火の子と水の子が争い、枝が折れる”。
地上の紅月と王都と湿原と海と山、全部を一撃で片づける都合のよい筋だ。
「折らせない」
ロナが白布の端に掌を置き、すぐ離す。
触れて離す――規の二つ目。決め切らせない。
ミレイユが旗を遅らせ、テールが糸を緩めて締める。
しわに筋が引っかかり、勢いが鈍る。
シアンが余白の印を軽く叩く。「筋の“外”に、粥を挟む」
俺は腰の小鍋から湯気を立てた。ここでも粥は火ではなく温度になる。
「昼のものを、神話に混ぜるな」
白布の“折れる”の文字が、湯気に曇って薄くなる。
5. 王の星書と紅月の古伝
当然、上でも争いは起きる。
星図を携えた王の星書官が、下から伸びる視線越しに言う。
「世界樹の頂は王家の星座に属す。英雄譚は冠の下に編まれる」
紅月の古伝子は、赤い扇を伏せて告げる。
「月の血の物語は、枝先の落花で結ばれる。結末は落ちる」
席の鈴が三つ、順に鳴った。
ミレイユが旗をくるりと返して無地を見せる。「色は要らない。揺れだけを見ろ」
カイルが鍬の背で軽枠を叩き、四拍目にだけ響かせる。
星書官の図も古伝子の扇も、四拍目で止まった。
「止められるのか、ここで……」星書官の声が混じる。
「止めるんじゃない。遅らせる。遅らせれば、粥が挟める」ロナが答えた。
6. “落ちる筋”のほどき方
神話は落ちるのが好きだ。英雄も巨木も、落ちれば美しい。
だが落ちた後の腹は空く。
俺たちは「落ちる」を分解した。
旗を斜めに落とし、三段で止める。
一本目で“予告”、二本目で“踏み切り”、三本目で粥。
粥は落下の終わりではない。昼だ。
昼が入ると、伝承の締めの夜が少し後ろへ退く。
テールが凧糸を「予告・踏み切り・昼」の節で結び替える。
しわの中の筋は三度ほど足をもつれさせ、自分で鈍る。
シアンは何も書かない。白布の隅に、ただ余白の印を足すだけだ。
7. 風の下のざわめき
下から別の風が上がってきた。
物語を売って生きる筆の商隊――王都でも紅月でもない、符牒だけで動く書き手たちだ。
「頂の一撃譚、買うぞ」
「“折れた枝の下で粥を分け合う”も良いぞ」
彼らは早い。席で遅らせた間に、商品にしてしまう。
カサンドラが上へ声を投げる(ここでだけ、不思議と届いた)。
「語りの誓盟を忘れない。余白を残せ。昼に読め」
商隊の一部が舌打ちし、一部が肩をすくめ、一部が白紙の束を掲げた。
「白紙で売る。読むのは昼」
それで十分だ。神話は読み方に弱い。読み方を席で決めれば、刃より速い物語も、粥より遅くなる。
8. 席の落下、地上の受け
午後、風が急に荒れ、軽枠が大きく煽られた。
糸が唸り、掌印石が半歩、空で滑る。
「落ちる!」
ミレイユが旗を三段で落とし、俺は鍬の柄を横にして枠を受ける。
でも、高さが違いすぎる。
そのとき――地上からラグの大声が上がった。
「受けるぞ!」
広場いっぱいに張られた粥布――薄い布に、湿原の葦液と海の塩粉を染ませた“温い受け身”。
軽枠はゆっくりと昼に落ちた。砦の鈍火が拍を合わせ、色鈴がちりんと順に鳴る。
白布の上に残ったのは、たった一行の“余白の跡”。
『ここに席があった(あっただけ)』
それ以上の言葉は、昼の粥に溶けた。
9. 地上の合意
夕刻、境席に王の星書官と紅月の古伝子、筆の商隊の頭領を呼ぶ。
「頂の一撃譚は?」
「遅らされた」星書官が疲れた笑みを見せる。
「“落花の結末”は?」
「昼に回された」古伝子が扇を閉じる。
「商品は?」
「白紙で売る」商隊の頭領が肩を竦める。「読むのは昼、席の前」
カサンドラは短くまとめ、共の板に貼った。
神話の席・地上協定
一、頂の筋は三段で落とす(予告・踏み切り・昼)。
二、読みは昼、席の前。夜の語りは歌にのみ混ぜる。
三、白紙での頒ちを許す。書き込みは席で削る。
四、誰のものでもない余白を、冠も月も商も奪わない。
署名は掌印。名の前に置くのは、跡だけだ。
10. 次の拍
夜。
湧き水に掌を沈めると、脈は高く、だが落ち着いていた。
“決まり”はどこにもない。“続け方”だけが、拍になっている。
リオンが王都から戻り、椀を両手で受けた。
「上へ行ったか」
「ああ。――落ちそうになったが、昼に落ちた」
「粥がいい」
「粥がいい」
色鈴が五つ、ゆっくりと巡り鳴る。
誰のものでもない席は、枝の外にも置けた。
神話の速さは、粥の遅さでほどける。
明日も耕せる。
それで、十分だ。
つづく




