第32話「境の外──語りの席」
1. 語られる前に
砦の夜は静かだった。
東の潮、西の返り灯、北の冷え、南の温さ、地下の静けさ、空の視線――すべてが粥鍋の湯気のようにひとつへ集まっている。
だがその外側で、確かにざわめきがあった。
「……聞こえるか?」
カイルが鍬を握りしめる。
「耳じゃない。心に擦れる音だ」ロナが粉袋を抱えた。
ミレイユが輪唱の譜を伏せる。「語られる前に覗かれてる。物語を作りたがる誰かが、外から」
カサンドラが板葉に黒い縁を描いた。
「境の外。まだ語りに名も掟もない。――だからこそ、席を先に置く」
2. 語りの外の脅威
翌日。湧き水は濁ってはいないのに、映る影が二重だった。
ひとつは俺の顔、もうひとつは“読まれている俺”。
「勝手に語られてる」シアンが息を呑む。「存在を、物語にされてしまう」
もし放っておけば、砦の出来事は王都の記録に、紅月の古伝に、あるいは闇祷派の教義に“物語”として飲み込まれる。
「語られる前に、読まれ方を決める席が要る」ロナが言った。
3. 語りの席の設計
俺たちは砦の広場に集まり、語りの席を考えた。
天板:白紙の板葉を重ねる。まだ何も書かれていない“余白”そのもの。
脚:地下から持ち帰った掌印の石。声も光もなく、ただ存在の跡を刻む。
鈴:南から持ち帰った色鈴を五つ。語りの拍を混ぜすぎぬために、必ず鳴らす。
布:空の旗布。視線を受け止め、返すための余白。
規は三つに定めた。
一、ここで名を語らず、跡を置く。
二、物語は昼の粥で読む。夜は歌に混ぜない。
三、書かれたものは削り、余白を残す。
4. 王都と紅月の来訪
やはり来た。
王都の記録官と紅月の語り部が、席に名を持ち込む。
「記録は王の冠に属す」
「物語は紅月の古伝に属す」
だが席の天板は白紙しか受け付けない。
書こうとすれば、鈴がちりんと鳴り、文字は消えた。
「余白にしか残らない……」記録官が顔を曇らせる。
「語りは熱を失う……」語り部が扇で顔を覆った。
カサンドラは冷静に告げた。
「ここは語りを削る席だ。削られた後に残った余白が、本当の記録だ」
5. 語りの試み
昼、粥を炊く。
湯気の中で、地下の掌印石に手を重ね、白紙に影を落とす。
影はやがて消え、代わりに空白の跡が残った。
誰も書いていないのに、確かに“誰かがここにいた”とわかる余白だ。
王都も紅月も、それを否定できなかった。
「……消えたのに、残る」
「記録にも古伝にもない余白だ」
6. 語りの誓盟
誓いを布に記す。
語りの誓盟
一、名を語らず、跡を残す。
二、物語は昼の粥に混ぜ、夜には歌わせない。
三、書きすぎた文は削り、余白を残す。
四、余白を奪う者は、席に触れられない。
署名の代わりに、王都の記録官も紅月の語り部も掌を押し、跡を残した。
彼らも理解したのだ。物語が“語る前に削られる”ことが、世界を守ると。
7. 語りの返礼
夜。
湧き水に影を映すと、もう二重には見えなかった。
影はただの影で、語られる俺はいなかった。
砦の広場に白紙の束を積み上げ、色鈴を吊るす。
子どもたちが粥をすすり、笑い声が余白を震わせた。
「粥がいい」
その声が語りにならず、ただ余白に溶けた。
8. 次の拍
掌を湧き水に沈める。
今度は根から上――空よりもさらに外。
「……世界樹の上だ」ロナが目を閉じた。
「枝の外に、まだ誰のものでもない拍がある」
カイルが鍬を強く握る。「空より外……そこはもう、神話の場所だろ」
カサンドラが板葉を閉じる。「神話になる前に、席を置けるかどうか。それが次だ」
俺は頷き、粥をひと匙すくった。
熱いが優しい味。
「粥がいい」
誰も笑わなかった。みんな、その一言を胸に沈めた。
つづく




