第29話「空の穴──視線の席」
1. 星の裂け目
山の谷から戻った夜。砦の湧き水は、落ち着いているのにどこか息を潜めているようだった。
世界樹の葉を仰ぐと、北東の夜空にぽっかりと黒い穴があった。
星の群れを押し分けるように、そこだけは視線が吸い込まれる。
ロナが囁いた。「音も祈りも届かない。だが、見てしまう。……視線だけが残る場所」
カサンドラは板葉に黒点を描き、「空にすら誰のものでもない場がある」と言った。
2. 空へ席を出す
「どうやって席を置くんだ?」ラグが頭を掻く。
テールは葦を束ね、凧のような形に編む。「空に掲げる布の席だ。板ではなく、布が視線を受け止める」
文官シアンは、文字を大きな布に描いた。「名を言わず、布に記す。風が読んでも構わない」
「歌は届かない。なら、手旗だ」ミレイユが袖を翻す。「動きで拍を刻む。上げ、下げ、交差、返す。四拍で一巡」
砦の子らが丘に登り、布の席を掲げる。
風が裂け、布を叩く。穴は沈黙している。
だが、布に描かれた線がほんの一瞬、星の光を遮った。
「見られている……」カイルが呟いた。
3. 王都と紅月の応答
翌日。王都からの告示が届いた。
『空の穴は王家の星図に記録あり。視線の儀は王祈祷院の許可を要す』
紅月からも文が来た。
『空の裂け目は紅月の古伝にあり。旗は紅月の紋を掲げるべし』
砦の境席に呼び出す。
王都の役人は星図を広げ、紅月の使者は赤い旗を持ち込む。
「星は王の冠に含まれる」「裂け目は紅月の記憶に含まれる」
カサンドラは首を振る。「冠も記憶も、穴を埋められない。空は空のままだ」
布の席に二者の旗を並べた。
だが風が吹くと、赤も白も同じように揺れ、星の前では区別が消える。
「視線には色が見えない。残るのは、ただ“揺れ”だけだ」
ミレイユの言葉に、沈黙が落ちた。
4. 視線の祭
夜。砦の丘に人々が集まる。
布に模様を描き、手旗を振る。
「視線を返すのは、目ではなく動きだ」
四拍ごとに旗を揺らし、布の模様を風に流す。
黒い穴は沈黙を続けた。
だが、不思議なことに夢が軽かった。
誰もが深く眠り、同じ夢を見なかった。
「……視られる代わりに、夢を奪われない」ロナが呟いた。
「なら、席は効いてる」
5. 誓いの布
翌朝、布に描かれた模様が淡く残っていた。
夜露に濡れ、光に透けて、星の名のように散っている。
砦の者たちはそれを誓いの布と呼び、席に置いた。
『視線は奪わず、旗で返す』『名は布に描き、風に削らせる』
規は布に記され、風がそれを千切るたびに新しく書き足す。
王都も紅月も渋々署名した。
なぜなら夜、彼らもまた夢に沈まず眠れたからだ。
夢の軽さは、誰のものでもない証拠だった。
6. 次の拍
湧き水に掌を沈めると、脈は東からの湿り、西の返り灯、北の冷え、南の温さをまとめ、さらに遠くを指していた。
「……地下だ」
ロナが目を閉じる。「根より下。土の奥で、祈りも灯も届かぬ無音がある」
カイルが鍬を握る。「地の底に席を置くのか。声も光も届かねえ」
ミレイユが笑った。「なら、触れる拍だよ。手の感触で刻む」
俺は頷き、粥鍋を混ぜた。
火は鈍く、湯気は白い。
「粥がいい」
その言葉がまた拍を刻み、砦をひとつにした。
つづく




