第26話「高地の乾き──石の拍」
1. 旅立ちの前
湿原の葦を砦に持ち帰ってから、わずか数日。
広場の火は落ち着き、粥の香りは濃い。だが湧き水の脈は落ち着かない。南の湿りを取り込んだ反動か、北の風が急いていた。
「次は“高地”だ」
カイルが板葉を指で叩いた。
「乾きが強く、風が音を裂く。祈りは短く燃え、刃は長く響く」
「湿った歌は効かねえってことか」
ラグが肩を鳴らす。
「なら、石で拍を取る。乾きは石の音にしか応えねえ」
ミレイユが輪唱の譜面を改め、「高い音を低く落とす」練習を子らに教える。
ロナは粉袋を調べ、「塩でも灰でもない、“影を薄める粉”が要る」と呟いた。
「――それを探しに行こう」
俺は鍬を担ぎ、葦の葉を腰に差した。
世界樹の拍は北を指していた。乾きの大地で、まだ眠りを知らぬ土地へ。
2. 高地の門
二日の行程で、砦の風が薄れ、乾いた音が耳を打った。
草は低く、土は赤く、岩が並び、空気は軽い。
喉がすぐ渇き、言葉が粉になる。
「ここが“高地の乾き”」
カサンドラが目を細める。
「水はある。だが深く、硬い。――息は石に縫われている」
岩棚の上に集落が見えた。屋根は低く、壁は厚い。
人々は水瓶を抱え、短い声でやり取りする。
長い言葉は風に裂かれる。
だからこそ、彼らの“祈り”は短い――一拍で燃える。
3. 石守との出会い
村の広場に立つと、石を抱えた老人が寄ってきた。
背は曲がっているが、目は鋭い。
「名は要らぬ。石を置け」
俺は腰の石を板に置いた。
老人は頷き、同じく石を置いた。
「――名の代わりに石。ここではそれが約束だ」
石守と呼ばれる人々は、石で拍を取る。
彼らの歌は短い。だが石を叩く音が腹に響く。
「燃える祈りを抑えるには、石を“冷やす音”に変えねばならない」
ロナが言い、石守は眉を動かした。
「外から来た祈祷師よ。なら、冷やす石を見つけてみろ」
4. 焼けた祈り
夕刻。村の外れにある祭壇で、祈りの儀が始まった。
男が短く叫ぶと、火が岩の裂け目から吹き出す。
祈りが燃料となり、石そのものが燃えるのだ。
村人は慣れている。火が収まるのを待ち、水を掛ける。
だが老人はため息をついた。「昔はここまで荒くなかった。……王都の祈祷師が“力を増やす”と言って石に祝詞を刻んだ。それから燃えやすくなった」
「燃える前に吐かせる。湿原と同じだ」
俺は鍬を地に突き立て、湧き水を少し注いだ。
だが水は石に弾かれ、蒸気だけが立った。
「水じゃない」カイルが首を振る。「石を冷やすのは、水ではなく影だ」
5. 影を薄める粉
ロナが懐から小袋を取り出した。
中には白でも黒でもない、灰青の粉。
「“影抜き粉”。遠い海辺の町で、影を壁に映さぬために撒くという。――影を薄め、火を遮る」
粉を石に振りかけると、蒸気が立たず、音だけが響いた。
ゴン、と。
石が深く鳴り、火は立たない。
「……効いた」老人が目を細める。「影を削いだのか」
「影を抜けば、祈りは燃えない。ただ息に戻る」ロナが答える。
「これを“石の拍”に変える。祈りを燃やす前に、石で吐かせる」
6. 石の席
村の広場に境席を設ける。
脚は岩、板は厚木、葉ではなく石を印にする。
名を置く代わりに、石を置く。武器は地に置き、祈りは短くせず、ただ息を吐く。
初めての“石の席”に、村人たちは戸惑った。
だが老人が先に座り、石を三つ並べた。
「一は息。二は影。三は火。――火に行く前に、影を抜け」
輪唱は短く、石を叩いて拍をとる。
乾いた音が、風を裂かずに残った。
7. 紅月と王都の介入
翌日、紅月の使者が現れた。
黒衣に赤の帯、手には石を刻んだ札。
「石を燃やす力は、軍の刃となる。――献石を求む」
王都の役人も遅れて到着した。
「石を冷やす粉は、王の権威のもとで配分されるべきだ」
席に座らせ、石を置かせる。
紅月は黒い石、王都は白い石。
村人の石は灰色。俺たちの石は葦に結んだ印。
「色は違えど、音は同じ」
ミレイユが輪唱を低くし、石を叩く。
ゴン、ゴン、ゴン――色は混じらず、音は揃う。
「音を合わせる。火を合わせない。――それがここでの掟だ」
王も紅月も不満を隠さない。
だが、座らされ、音を聞かされれば、否も言えなかった。
8. 石守の誓い
老人は立ち上がり、共の板に石をひとつ置いた。
「この石を“誓石”とする。誰であろうと、この石の前で火を呼べば、その火は自らを焼く」
席の規則が、村の掟になった。
アサギが葦を持ち寄り、「湿原の息」として誓石の下に敷いた。
砦の印と湿原の印が交わり、石守の掟は広場の板葉に記された。
9. 帰路、砦の拍
三日後。砦へ戻ると、広場には新しい板葉が貼られていた。
王都の布告――『浮橋に鳴り孔を設けよ』。
紅月の密文――『呼吸穴を塞ぐな』。
そして黒の谷からの文――『眠れる夜が来た』。
石守からの返書も加わる。
『火は燃えず、音は残る。誓石は影を抜いた』。
広場の火は鈍く、粥の香りは濃い。
リオンが椀を掲げ、「粥は?」と笑う。
「粥がいい」――その言葉が拍になり、砦全体を包んだ。
10. 次の息
湧き水に掌を沈める。
脈は深く、湿りも乾きも、いまは調和している。
だが奥で新しい拍が芽吹いていた。
――東の海。
水が多く、風が早く、祈りは“溺れる”。
「次は、海だ」
鍬を立て、息を吸う。
世界樹が高く鳴り、葉が一枚、波のように揺れた。
つづく




