第24話「王都の風、砦の拍」
1. 帰還の報せ
黒の谷から戻った翌朝、砦はまだ眠たげだった。
広場の火は小さく、粥の湯気も弱い。だが板葉の前には、もう王都からの使者が立っていた。
細身で灰色の外套、目は眠っていない。
「王都で“名を伏せる一日”が試された。……結果を告げに来た」
広場にざわめきが走る。
カサンドラが共の板に手を置く。「どうなった?」
「……成功だ。だが、王は怒っている。『冠の下で名を隠すとは背信』と」
リオンは境席に立ち、剣を鞘に納めたまま呟いた。「冠は怒る。だが、人は眠った」
2. 風に乗る歌
同じ頃、吟遊の一団が王都から戻った。
彼らは“境席の歌”を持ち帰り、街角で奏でたという。
「最初は嘲笑だった。だが夜になると、皆、腹から声を出し始めた」
輪唱は祈りに似ている。だが祈りより低く、夜を眠りに変える。
「……だから王は怒った。祈りを薄める歌は、冠にとって毒だ」
老婆は笑う。「毒なら、粥に混ぜて薄めな」
広場に笑いが広がり、火が鈍く明るくなった。
3. 議会の影
昼過ぎ、議会の使節が板葉を持ち込んだ。
『境席は民会に属せぬが、民会は境席を視察できる』
つまり、監視を兼ねた「共存」だ。
カサンドラは眉を寄せ、「境席は誰のものでもない」と抗議した。
だが使節は笑う。「だからこそ、誰もが覗けるのだ」
板葉に残された文は灰色だった。
テールが緑糸で周縁を縫い、文官が追記した。
『視察はできる。だが、名は置く。武器も置く。祈りも置く』
――結局、境席の規則が勝つ形となった。
4. 紅月の布
夕刻、紅月からは布が届いた。
深紅の絹に黒糸で縫われた模様――燃える世界樹。
「献木の証」と称されたそれは、祈祷の匂いを帯びていた。
ロナが指でなぞり、低く言った。「これは“燃え残す”印。木を燃やし、灰を守る術だ」
「裏切りの布か」ラグが舌打ちする。
俺は布を火にかざした。
燃えない。
だが鈍火に混ぜると、炎は小さく安定した。
「……布は祈りの刃じゃない。燃やし残す術だ。なら、鈍火の覆いに使おう」
紅月の布は“拒絶”ではなく、“利用”に変わった。
5. 新しい息の道
夜。種火の子らが再び戻ってきた。
峠の村からは石、谷の集落からは布、川辺の町からは歌詞。
それぞれ板葉に貼られ、息の地図に線が増える。
黒の谷の席は確かに根づき、拍を返していた。
「席はもう砦だけじゃない」
カサンドラが言う。「王都にも、紅月にも、遠い峠にも。……呼吸が散れば、刃は届かない」
リオンが粥の椀を掲げた。「明日も粥だ」
「粥がいい」広場に笑いが広がる。
6. 次の火種
だが、カイルの声が火を引き締めた。
「まだ“穴”がある。――南の湿原。祈りも刃も届かず、ただ沈む土地」
ロナは頷く。「湿原は祈りを飲む。……飲んだ祈りは、いつか吐き戻す」
カサンドラが板葉を叩く。「次はそこだ。席を置く前に、吐き戻しの道を作らなきゃならない」
広場の空気が重くなった。
だが、息は止まらない。
世界樹の葉が鳴り、遠い南へと拍が伸びていく。
7. 眠りの夜
その夜、吟遊と子らが輪唱を重ねた。
祈りではなく、眠りの歌。
火は鈍く、葉は青く、粥の香りが夜を満たす。
俺は鍬を立て、湧き水に掌を沈めた。
脈は深い。
――だが、南の湿原から冷たい逆流が、わずかに触れた。
次の火種はそこにある。
それでも今日は眠れる。
眠りがあれば、朝は来る。
朝が来れば、粥が炊ける。
粥があれば、席が広がる。
つづく




