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最弱魔法で追放されたけど、田舎で畑を耕したら世界樹が芽吹きました  作者: しげみち みり


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第23話「黒の谷(くろのたに)へ」

1. 出立の朝


 粥の湯気がまだ薄く、世界樹の葉が朝の拍を刻むころ。

 遠征隊は、広場の共の板の前に並んだ。

 先頭はラグ、続いてカイル、ミレイユ、文官、テール、ロナ。

 子どもは連れていかない。代わりに「種火たねび」の年長組三人――足が速く、歌を外さない者たち――が同行する。

 俺は鍬と水囊すいのうを背に、湧き水へ掌を沈めて脈を確かめた。拍は深く、遠くへ伸びる気配を伴っている。


「黒の谷までは二日。戻りも二日。寄り道をしたら五日」

 カサンドラが板葉にさらりと書き、葉の広場の柱に掲げる。

 「合言葉は“眠りの歌”。祈らない。武器は隠さない。ただし“席”が先」


 老婆が俺の前掛けをぐいと引き寄せ、泥の袋を結んだ。

 「喉に塗るもよし、火に塗るもよし。腹で噛めば眠れる」

 「ありがたい」

 彼女は目をすがめ、低く言った。「黒の谷は、祈りの匂いが濃い。歌を忘れるんじゃないよ」


 リオンは境席の端に立ち、剣を鞘に納めたまま一礼した。

 「王都を揺らす。……道を拓けたら、追う」

 「粥は残しておく」

 「粥がいい」


 合図は短く、出立は静かだった。

 葉幕の隙を抜けて、砦の呼吸から野の呼吸へ。

 風の骨が変わり、音の背丈が低くなる。世界樹の加護は薄れるが、切れはしない。根は長い。拍は届く。


2. 黒を名に持つ谷


 初日の昼過ぎ、黒の谷を囲む丘陵が見えた。

 草は色を失い、風は乾き、鳥は遠巻きに鳴く。

 谷口には石の門――誰が積んだとも知れぬ、祈りとも呪いともつかぬ石積み。

 近づくほど、喉の奥に粉のようなものがまとわりついた。


「灰祟りより“古い”匂いがする」

 ロナが囁く。「祈りを食う前の祈り。……土着の“願いのかす”だ」

 カイルは風を読む。「谷風は時計回りに渦を巻く。歌を上げると、音が“戻る”」

 ラグが鍬を肩に叩く。「じゃあ、歌は低く、腹で」

 「そうだ」俺は頷く。「喉じゃなくて腹だ。祈りは喉で立つ。眠りは腹で落ちる」


 谷口の石門の内側に、最初の“席”を出す。

 折り畳みの長板、四つの脚、葉を差す孔。

 携行版の境席だ。

 テールが緑糸で枠を結び、ミレイユが葉を二枚差す。

 『武器を置く』『名を置く』――小さな葉の印。


 最初の訪い人は風だった。

 低い音で、石積みの間を撫で、板の端を鳴らす。

 その次に来たのは、谷の民だ。

 痩身、黒衣、額に灰。

 彼らは目に薄い膜を張ったような表情で、席を見、俺たちを見、石を見た。


「名は?」

 カサンドラが問うと、男は首を振る。

 「名は“谷”だ。名は皆でひとつだ」

 「なら座れる」

 俺は板葉を示した。「ここは名を置く席だ」


 男は躊躇い、やがて腰を下ろした。

 手は震えていないのに、目だけが揺れている。

 「紅月が来た。王の紙も来た。皆、祈りを持ってきた。――今日、あんたらは“歌”か」

 「歌だ。眠るための」

 「眠れない。ここは、眠ると燃える谷だ」


 言葉は刃にも祈りにもなり得る。

 俺は鍬を横に置き、泥袋を男の前へ押した。

 「噛め。味は悪いが、喉より腹が先に動く」


 男は泥をひとかけら口に含み、目を閉じた。

 腹が一度、大きく動いた。

 「……少し、楽だ」


3. 黒い祈祷の跡


 谷の奥へ進むほど、祈祷の跡が増えた。

 木の幹に巻かれた黒布、石に刻まれた印、乾いた井戸。

 「“祟りを祀る”やり方だ」ロナが言う。「祟りが“家族”になってしまう」

 「家族にしたものは、切れない」カイルが短く返す。「だから、ほどく。切らない」


 俺たちは道すがら、携行の葉幕を張り、井戸に薄い白樺汁を垂らし、石に小さな息の印を刻んだ。

 ミレイユは子らに“眠りの輪唱”を教え、文官は板葉に拍を写す。

 谷の民は遠くから見ていた。祈りの歌ではない、腹の歌に最初は戸惑い、やがて口元を緩めた。


 日が傾くころ、谷の中心部――黒い水面が見えた。

 湖ではない。乾いたはずの底に、光を食むような黒がたまっている。

 ロナが膝をつく。「……“祈りのおり”。紅月の祈祷師が灰を混ぜ、王都の祈祷師が“祝詞”で固定した」

 「水じゃない。飲めない。だが“飲みたい”気配を呼ぶ」ミレイユが顔をしかめる。

 ラグが鍬を強く握り直す。「これ、掘れるか?」

 「掘れば散る」カイル。「散った先は、寝床だ」


 俺は湧き水の小壺を開け、指で黒の縁を撫でた。

 音がしない。

 だが、拍がある。

 ――祈りの拍。

 喉で立ち上がり、額で固まる拍。


「“席”を出す」

 俺は決めた。「ここに“誰のものでもない席”を置く。祈りの澱に、腹の拍を混ぜる」

 テールが頷き、緑糸で枠を固める。

 ラグとカイルが石を運び、板を水平に据える。

 ミレイユは葉を差し、ロナは粉袋を握ったまま目を閉じた。


 席は水面の縁――否、黒の縁に置かれた。

 誰の物でもない、ただの板。

 しかし、いま谷で一番“人のための場所”になった。


4. 最初の対話


 夜が降りる前、谷の民が少しずつ近づいてきた。

 最初に座ったのは、あの石門の男。

 次に、背を丸めた老人。

 最後に、灰を額に塗った若い女。

 彼女は震える声で言った。

 「……眠りたい。けど、眠ると燃える」


 ロナが首を横に振る。「眠ると燃えるのは、祈りの拍だ。眠りの拍は、燃えない」

 「わからない」

 「わからないままでいい。歌え。――喉じゃなく、腹で」

 ミレイユの輪唱が低く始まり、俺たちが続く。

 子らが拍をとり、ラグが合いの手を入れ、テールが息を合わせ、カイルが風を読んで音の通り道を整える。

 老人が最初に声を出した。

 女が目を閉じ、額の灰がわずかに乾いた。


 黒の縁が、ほんのわずかに“浅く”なる。

 掬えるほどではない。

 だが、拍に“隙間”が生まれた。


5. 影の来訪


 その時、谷の奥から整い過ぎた足音が近づいてきた。

 紅月の祈祷師――顔は布で隠し、肩に黒い鈴を提げている。

 鈴は鳴らない。鳴らずに、“鳴ったこと”を周囲に思い知らせるための飾りだ。


「席とは面白い。――だが、ここは“家族の間”。よそ者は、祈りを持たぬなら帰れ」

 影の声は柔らかいが、喉を締める癖がある。聴く者の呼吸を奪う。


「祈りは持たない」俺は答えた。「眠りを持ってきた」

 「眠りは死の妹だ」

 ロナが一歩進み出る。「……祈祷師の兄弟なら、知っているはずだ。妹は死ではなく、**あわい**だ。死よりも先に人を救う」

 「裏切り者」

 影が一歩踏み出すと、黒の縁が揺れた。

 その揺れに合わせて、谷の民の喉が鳴る。祈りが立ち上がりかけた。


「席に座れ」

 俺は影に言った。「座らないなら、話は終いだ」

 「名を置けというのか?」

 「名は置く。武器も置く。祈りも置く。――それが席だ」


 影は短く笑い、鈴に手を添えた。

 そして、座った。

 鈴は鳴らない。

 ただ、影の喉が一度だけ空気を通した。


6. 境の歌


 席に座った影は、意外にも早く“拍”を理解した。

 話は刃にも祈りにもせず、息で返す。

 「谷は眠れずに燃える」「眠れないのは祈りが喉に滞るから」「滞りを腹へ落とす歌がいる」

 やり取りのすき間で、黒の縁がまたわずかに浅くなる。


 だが、影は最後に一枚の薄い紙を出した。

 王都の“陰書”に似た筆致――紅月の“陰祈かげのり”。

 『守り人は黒土を盗み、谷に祟りを撒いた』

 紙は刃ではない。だが、明日の刃を呼ぶ種になる。


 テールが紙を受け取り、緑糸で解いていく。

 「ここに“名”がない。席では通らない」

 ロナが紙の端に指を触れ、祈祷の結び目を外す。

 紙はただの紙に戻り、ミレイユが泥に混ぜた。

 泥は火にならず、土になった。


 影は驚きもしない。

 むしろ興味深そうに言った。「席は祈祷の外にある。……面白い。明日、もっと“外”に近い者が来る」

 「歓迎する。席は誰のものでもない」

 影は立ち上がり、鈴を鳴らさずに去った。


7. 夜の浅瀬


 夜。

 黒の縁は浅くなったといっても、まだ“水”ではない。

 眠りの輪唱は続き、谷の民は交代で席に座り、腹から息を出し入れする。

 ラグは外縁で火を鈍らせ、カイルは風の通り道を少しずつ曲げる。

 文官は拍の変化を板葉へ、テールは破れの修繕を、ミレイユは喉に泥を――ロナは静かに目を閉じていた。


「まだ、足りない」

 彼がぽつりと言った。「“抜け道”がいる。祈りの澱は上から押さえるだけでは浅さを保てない。どこかへ“抜け”たがっている」


 俺は黒の縁を見つめ、湧き水の小壺を握った。

 砦の堀では、飲んで吐いて返した。

 ここでは――飲めない。吐くには、まず飲ませねばならない。

 飲めるものは水だけではない。席も飲む。歌も飲む。


「“橋”だ」

 俺は言った。「席を橋にして、黒の下へ“息の抜け”を通す」


 ラグが目を丸くする。「席は板だぞ」

 「板は“臓器”にもなる。砦でそうだったろう」

 カイルが頷く。「板の下に“溝”を掘る。白樺汁でぬめりを作り、緩い傾斜で外へ逃がす」

 テールが糸を掲げる。「縫う。板と土を“喉”にする」


 谷の民も黙って手を貸した。

 祈りをほどくことはできない。

 だが、祈りの“滞り”を減らすことなら、できる。


8. 抜け道のはじまり


 夜半、携行の境席は橋になった。

 板の下に掘られた浅い溝へ、白樺汁を薄く塗り、泥の細い糸を通す。

 ロナが粉袋から最後の一摘みを落とし、ミレイユが輪唱を半拍落として吐き戻しの拍に変える。

 文官が砂時計をひっくり返し、俺は湧き水を指で垂らした。


「吸え。吐け。――祈りじゃなく、息で」


 板の下で、ささやかな音がした。

 水の音ではない。

 祈りの澱が“こすれる”音。

 長年、喉に絡んだ痰が、少しだけ動くような感覚。

 谷の民の腹が一斉にわずかに沈む。

 誰かが短く笑い、誰かが涙を拭った。


 黒の縁が、さらに浅くなった。

 踏み外せば飲まれるが、踏み広げれば渡れる浅瀬――そんな手触りが生まれ始める。


9. 二日目の朝と、紅月の“外”


 朝焼けが谷の壁を赤く染めたとき、約束通り“外”の者が来た。

 紅月の軍旗でも、王都の印でもない。

 顔の半分に古い火傷を持つ女が、ひとりで席に歩み寄る。

 鈴はない。祈祷の匂いも薄い。

 ただ、旅の匂いがある。


「言葉を置きに来た。名は、いらない」

 彼女は腰を下ろし、短く言った。「黒の谷は、祈りでも王でも紅月でもない“穴”に落ちている。穴は塞ぐより、通す方が早い」

 「通す道は、作り始めた」俺は答えた。

 女は橋――境席の下を覗き、鼻で笑った。「無茶だが、効いてる。そとの粉を足す」

 小袋がひとつ、板の上に置かれる。

 中身は白く細かい粉。反祟りでも灰でもない。

 「海の縁の村が使う。死者の塩に似て、祈りを“塩抜き”する粉だ」


 ロナが感嘆の息を漏らした。「これなら、祈りの澱に“味”をつけられる。腹の方へ落ちる味だ」

 女は肩をすくめた。「礼は要らない。――ただ、席を覚えておく。いつか、私も“祈らない夜”に混ぜてくれ」

 「約束する」

 女は立ち、山影に消えた。

 “外”は、いつも風のように来て、風のように去る。


10. 浅瀬を渡る


 昼前、抜け道は“細い川”になった。

 黒の縁は浅瀬となり、子らの足でも渡れる幅がいくつか生まれた。

 最初に渡ったのは、石門の男だ。

 腹で息をし、喉を閉じ、ゆっくりと、板の影から影へ――

 向こう岸で膝をつき、泥を噛む。


「……眠れる」

 彼が顔を上げると、額の灰がひび割れて落ちた。

 老人が続き、若い女が続き、谷の民が列を作り始める。

 橋は細い。焦れば落ちる。

 焦らせないために、拍が要る。

 ミレイユの輪唱が道標になり、文官の砂時計が渡河の間隔を保つ。

 ラグは転んだ者の肩を支え、テールは板の傷を縫い、カイルは風を曲げて舌を乾かす。


 ロナが最後に渡りながら、ぽつりと言った。

 「席は橋になれる。……砦でも、谷でも」


11. “名”の扱い


 渡り終えた者たちは、席に戻って“名”を一度だけ名乗った。

 名乗りは祈りではない。

 名は荷物だ。荷物は席で降ろす。

 石門の男は「カゲツ」と名乗り、老人は「サンヤ」と名乗った。

 若い女は、少し考えてから言った。

 「……私は“名なし”。名を置いて生きる」


 カサンドラが葉に短く記した。

 名を置く権利。名を名乗らぬ権利。

 板葉の端に貼り付け、息の地図の空白に線を一本伸ばす。


12. 黒の谷の席


 夕刻、谷の中心に新しい常設の境席が立った。

 板は太く、脚は深く、葉は多い。

 王印も議会印も紅月の通牒も、置くならここに。

 置けないなら、外でどうぞ。

 谷の民のうち三人が“席守せきもり”を買って出た。

 交代で見張り、歌を絶やさず、祈りを夜に送る役目だ。


「守り人」

 石門の男――いや、カゲツが俺に頭を下げた。

 「谷は、息を取り戻した。全部ではない。だが、朝が来る道ができた」

 「道があれば、粥が炊ける」

 俺は笑い、彼の肩を叩いた。「粥がいい」


13. 置き土産と、帰路


 帰り支度は、来たときより軽い。

 黒の縁が浅瀬になり、席守が立ち、歌が根づいた。

 俺たちは板葉と白樺の挿し木、泥袋と眠りの歌を置き、代わりに谷の土と小石を受け取った。

 小石には、拙い文字で『いき』と刻まれている。

 息は合っている。


 谷口の石門で、影――昨夜の祈祷師が佇んでいた。

 鈴は鳴らず、目だけが笑う。

 「席は、祈祷の外にある。……私は今夜、妹の方の歌で眠る」

 「祈るなら、夜に一人で」

 ロナが返すと、影は小さく会釈して消えた。


14. 帰る場所


 二日目の夕刻、砦の葉幕が見えた。

 世界樹の枝が高く鳴り、堀がただいまの拍を返す。

 広場では粥の湯気が立ち、共の板に新しい板葉が増えていた。

 王都の“名を伏せる一日”の告知、議会の“境席の試験運用”、紅月の“沈黙”。

 そして「黒の谷に常設席、守を三人選出」の板葉が、一番上に貼られた。


 リオンが境席の端で待っていた。

 剣は帯、鞘口の紐は緩い。

 「粥は残っているか」

 「ある。――粥がいい」

 皆が笑い、椀が配られる。

 ロナは泥の盃で水を飲み、テールは緑糸をほどき、ラグは大声で遠征話を誇張し、カイルは一言で要点を言い、ミレイユは輪唱を半拍落として“帰り拍”に変えた。

 世界樹は、眠たげに鳴いた。


15. 次のページ


 粥を食べ終え、湧き水に掌を沈める。

 脈は深い。

 しかし奥で、別の小さな拍が芽吹いている。

 ――席が増える拍。

 黒の谷の席、王都の席、遠い峠の席。

 どれも“誰のものでもない”からこそ、互いに息を通し合える。


「明日は?」

 カサンドラが板葉を束ねながら、さりげなく問う。

 「席の市を広げる。種火をもう一輪送り出す。王都の“名を伏せる日”に合わせて、吟遊の歌詞を“境席版”に書き換える」

 彼女は短く笑う。「忙しい“平和”だね」

 「平和は、忙しい方がいい」俺は鍬を立てた。「忙しいうちは、祈りが鈍る」


 枝葉がざわめき、光の粉が一枚の板葉に落ちる。

 その板葉には、黒の谷の子どもの字で、こう書かれていた。

 『ここにも いき』


 字は間違っている。

 だが、息は合っている。

 それで、今日は十分だ。


つづく

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