第19話「黒炎決戦編・前半──飲む道(みち)、吐く刻(とき)」
黒炎の朝は、色のない光で始まった。
空は晴れているのに灰色で、世界樹の葉脈は青白く透けている。
遠い地平で、黒い舌が低く吠え、風はまだ熱を運ばないのに、喉だけが先に渇いた。
砦は静かに巨大な胸郭のように呼吸していた。
葉幕は夜露をたっぷり含み、湿土は靴底を吸い、堀はいつもより一拍遅く脈を打つ。
外周では“風裂き”の溝が新しい迷路を描き、ところどころに小さな石場が島のように浮かぶ。
それらすべてが、今日この時のために積み上げてきた「飲む道」だ。
「配置につけ」
カサンドラの短い声が、葉の影に吸い込まれながらも全員へ届く。
老婆率いる葉幕隊は網代の継ぎ目を確かめ、湿土隊のラグは堀の縁で泥の折り返しを調整し、水脈隊のカイルは分水の栓を開閉して脈の拍を合わせる。
祈祷師の若者――名を問うと「ロナ」とだけ名乗った――は、反祟りの粉の壺を抱え、門の上で空を見上げていた。
ミレイユは長机の脇で板書を広げ、文官は拍子を刻む砂時計を三つ並べる。
俺は湧き水に掌を落とし、世界樹の脈を全身で受ける。
脈は深く、力強い。
黒炎は“飲む”。なら、こちらは“飲ませる”。
飲ませ、吐かせ、流す。
そのために、砦全体を一つの胃袋に見立てて拍を合わせてきた。
地平が鳴った。
黒い何かが、光よりも先に走ってくる。
見えない炎――燃える前の燃え滓が空気を食い、風の骨格を軋ませている。
「来るぞ」
鍬の柄が掌に食い込む。
湧き水の温度がわずかに上がり、脈が一段速くなる。
世界樹は眠らない。眠らないから、こちらの恐れをひと口、飲んでくれる。
序章:黒舌の接吻
最初の黒舌は、丘の背を這う影として現れた。
日向と日陰の境のように曖昧で、しかし確実にこちらへ伸びてくる。
葉幕がざわめき、湿土が身を沈め、堀が深呼吸をした。
「今だ、第一拍!」
カイルが分水の栓を叩き、俺は掌を堀へ落とす。
水の流れが外から内へ反転し、堀の内壁に沿って渦を刻む。
渦は三つ。左翼・中央・右翼。
それぞれが、黒舌の先端を受け止める「飲み口」だ。
黒舌が葉幕に触れた。
火ではない。冷たさに似た熱が、葉の表面から水分を奪い、祈りの気配を嗅ぎ取ろうとする。
だが、昨夜から決めていたとおり、誰も祈らない。
葉幕はただの「生きた壁」として粉を散らし、湿土は舌の縁を汚して重くする。
渦へ、落ちろ。
俺は掌をさらに沈め、【水やり】の糸を延ばす。
黒舌の輪郭に触れると、そこには“食う”という意志があった。
なら、食わせてやる。
堀の内側に伸ばしておいた白樺汁の線を、餌の匂いとして漂わせる。
黒舌はわずかに軌道を変え、中央の渦へ自ら首を突っ込んだ。
「飲んだ!」
ラグの叫び。
堀の水が一段低く鳴り、黒の影が渦の中心に落ちる。
燃えない。まだ燃えない。
燃やす前に飲む――リオンの文の通りだ。
「第二拍、締めろ!」
堀の外縁に編み込んでおいた根の輪が縮み、渦の喉が締まる。
黒舌は身をよじって逃れようとするが、湿土と葉水が絡みついて離さない。
俺は掌を回し、渦の向きを外へ倒す。
飲んで、吐く。
砦の外の石場へ、黒の吐息を向けろ。
吐き出しの瞬間、門の上でロナが壺を掲げた。
反祟りの粉が糸のように風へ散り、吐息の縁に薄い膜を作る。
黒い息は膜に触れ、燃え損ねた熱を失い、石場に叩きつけられて鈍い煙へ変わった。
第一波、捌いた。
息を吐く暇もなく、第二、第三の黒舌が左右から迫る。
俺たちは拍を上げ、葉幕・湿土・渦・吐き膜の順で捌いていく。
渦は飲みすぎれば詰まり、弱ければ逃がす。
鍬の柄をてこの支点に、掌の角度で喉の締め具合を変える。
世界樹の根は、わずかな意志の傾きを、土の形に翻訳してくれる。
黒舌はしぶとい。
詰めた角をこじ開け、葉の継ぎ目を探り、祈りの匂いを嗅ぎ続ける。
だが今日、砦には祈らぬ拍子が流れていた。
祈れば立ち上るはずの言葉の熱がない。
黒舌は迷い、渦へ自ら身を差し出し、そして吐き出される。
中章:炎冠の儀
黒舌の連続が三刻続いたころ、丘の上で光が反転した。
昼なのに夜のように、夜なのに昼のように、世界の上下がわずかに入れ替わる。
黒炎の冠だ。
紅月の祈祷師たちが陣を完成させ、火隊が油を捧げた合図。
冠の中心に、金の影が立つ。
リオンだ。
剣は抜かれ、だが刃は黒を映さない。
彼は冠の縁に“穴”を空ける役目――逃がしの穴。
俺たちの「飲む道」と噛み合えば、黒炎は自分で自分の足を引く。
冠が唸り、空気が燃えないまま熱を帯びた。
喉の奥の水まで乾き、胸の内側に灰の舌が這う。
葉幕がわずかに縮む。
老婆が短く叱りつけ、子らが濡れ布で継ぎ目を撫で直す。
「中央渦、二段! 左右、間引き!」
カイルの指示。
俺は掌を二手に割り、中央の渦を二重胃にする。
外渦が粗く飲み、内渦が細く噛む。
吐き出しの角度は北西――王国と議会の陣の隙間へ向ける。
そこに置いた石場は、両者が“境界”として合意した場所。
吐息は合意へ落ち、誰のものにもならない。
リオンの剣が一閃し、冠の縁に隙間が生まれた。
黒の息がそこから漏れ、こちらの外渦がそれを掴む。
喉が灼ける。
掌から肘へ、血の味が上がってくる。
だが離さない。
離せば、黒炎は「祈りを見つける」。
吐け。
門の上でロナが粉を振る。
彼の粉は祈祷ではない。
祈らぬまま、沈めるための粉だ。
吐息の縁が一瞬、銀色に光り、黒の唸りが刺から鈍へ落ちる。
石場が受け、湿りの帯が絡み、黒は土へ戻っていく。
冠が揺れた。
紅月の祈祷陣に乱れが走り、火隊の掛け声が上ずる。
「もう一段、飲め!」
俺は掌を深く沈め、世界樹の脈へ重みを借りた。
根が鳴り、堀の内壁がわずかに広がる。
砦全体が、ひとつの胃袋になっていく。
破章:黒炎の牙
その時だった。
冠の内側から、逆向きの舌が伸びた。
飲むために伸びるのではない。
喉の内側から喉を噛み破るための舌だ。
黒炎の本性。
食う前に、食道を壊す。
「後退!」
ラグが叫び、湿土隊が一歩引く。
だが、黒の逆舌は堀を飛び越え、葉幕の裏側へ回り込もうとする。
祈らぬ拍子が揺れ、恐れの熱が立ち上る瞬間――それは祈りの熱の隙間だ。
黒はそこを狙ってくる。
俺は鍬を放り、両掌を地へ叩きつけた。
【水やり】を面に変える。
細い糸では間に合わない。
世界樹の汗を借りる。
地面がひと呼吸、汗ばむ。
葉の裏まで水気が走り、黒の逆舌の縁が滑る。
噛み破るはずの歯が、歯の役目を果たせない。
その半拍の遅れで、ラグが杭を落とし、カイルが外渦を逆回転にして絡め取る。
「ロナ!」
門の上で、祈祷師の若者が息を飲む音が聞こえた。
彼は自分の胸を拳で叩き、一度だけうなずく。
壺の中の粉が最後の一筋、風に舞う。
銀の糸が黒の逆舌に絡み、祟りの拍子をわずかに逆転させる。
黒は一瞬、自分の内側へ噛みついた。
冠が激しく揺れ、祈祷陣の一角が崩れる。
リオンがその隙を逃さず、刃で逃がしの穴をもう一つ開けた。
吐け。
吐け、吐け。
砦の胃袋が、黒の熱を外へ送り返す。
俺の耳が鳴り、視界が白く点滅する。
流し過ぎれば、内側が削れる。
世界樹が「限界」を鳴らす前に、拍を落とさなければ。
「第三拍、減速!」
砂時計が倒れ、文官が新しい拍を宣言する。
俺は掌をわずかに上げ、喉の締めを緩めた。
葉幕が戻り、湿土が沈み、外渦が一段と太くなる。
飲み過ぎない。
吐き切るために、飲み過ぎない。
間章:長机の裁き
門前の長机には、王国の副使と議会の使節が並んで座っていた。
彼らは炎の最中でも辞を弄する連中だ――だが今日は違った。
黒炎の唸りの前で、言葉は刃にも盾にもなれないことを、骨で悟ったらしい。
「守り人」
副使が乾いた唇を開く。「王は、黒炎の停止を命ずる勅を用意した。だが届ける術がない。勇者が道を開くなら、王印は今、紅月の陣へ掲げられる」
「議会も同じ。民の名で、黒炎を禁ずる紙を出す」
使節が紙束を机に叩きつける。「だが紙は燃える。紙を運ぶ息が要る」
俺はうなずき、砂時計の余白を数えた。
「吐きの拍で、境の石場に『紙の席』を出す。リオンが穴を開ける瞬間に、そこへ置け。炎の外、祟りの外、だが心臓の内――境の真ん中だ」
「紙が効くのか?」
ラグが半ば呆れ、半ば期待で目を見張る。
「紙は効かない。席が効く」
カサンドラが冷ややかに笑った。「“誰の物でもない場所”に置かれた言葉は、どちらの刃でも切り捨てにくい」
長机から分かたれた小机が石場へ運ばれ、濡れ布で覆われた。
王印と議会印の紙がその上に置かれる。
吐きの拍で黒がまたそこへ落ち、紙の上を素通りする。
誰の物でもない席が、今日は本当に“息の通り道”になった。
返章:飲んで、吐いて、返す
冠の揺れは増し、黒炎の唸りはやがて咳に変わった。
飲みすぎた胃袋が、吐き戻す前の、あの不快な咳。
砦はそれに合わせて拍を変え、堀の内壁が**蠕動**のように動く。
生き物の動き。
世界樹の根は、畑を“臓器”に変える。
俺の掌は痺れ、肘の骨が軋む。
【水やり】の糸はもう糸ではなく、面でもない。
土と水の境目で、指の感覚そのものが言葉になっている。
“飲め”“吐け”“細く”“太く”“ここで噛め”“ここで離せ”――
世界樹はすべて理解し、砦は従い、人々は拍を守る。
「アレン!」
ミレイユの叫びに顔を上げると、丘の上でリオンがよろめいた。
逃がしの穴を開け続け、刃は熱で白く曇っている。
冠の内側から伸びた新たな逆舌が、彼の足場を削っていた。
俺は迷わなかった。
鍬を握り直し、堀の縁を蹴って走る。
外渦の吐き出し直前――黒の息がいちばん薄い瞬間を踏んで、丘の石場へ跳ぶ。
リオンと俺の間に、黒の薄皮が一枚、貼りついている。
薄皮は祈りに反応する。
祈らない。
ただ、息を合わせる。
「受けろ!」
俺は鍬の背で地面を叩いた。
世界樹の汗が一瞬、薄皮に染み、黒の粘りがほどける。
リオンが体をひねり、刃を逆手に持ち替えて薄皮を割った。
穴が開く。
そこから、冠の内圧が逃げる。
「戻れ!」
ラグが怒鳴り、カイルが吐きの拍を一段落とす。
俺は丘から堀へ滑り戻り、掌をまた水へ沈めた。
全身が叫んでいる。
だが、砦の声はもっと大きい。
俺はその声に自分を混ぜる。
飲め。
吐け。
返せ。
終章:黒炎の背骨が折れる音
最後の拍は、思いのほか静かに来た。
冠の唸りが途切れ、黒の咳が細くなり、やがてひとつの骨が折れる音だけが丘に残った。
祈祷陣の中心で、黒い柱がくの字に曲がり、内側から崩れ落ちる。
火隊の叫びが遅れて響くが、燃えるべき火はもう無い。
残ったのは、重く湿った**煤**だけだ。
吐け。
最後まで。
堀の渦が最後の吐息を石場へ叩きつけ、湿りの帯がそれを抱く。
葉幕は大きく息を吐き、網代の隙間から朝の色が戻ってくる。
長机の小机に置かれた紙は、濡れて重くなったが、燃えなかった。
王印と議会印は、今日はただの重りだった。
だが、その重みが、境の席を地面に繋ぎ止めた。
丘の上で、リオンが膝をついた。
俺は堀を抜け、彼の肩を支える。
刃は鞘に戻り、鞘口の紐はほどけたままだ。
彼は荒く笑って、息を吐いた。
「……飲んで、吐いて、返したな」
「ああ。お前の“穴”がなきゃ、喉が裂けてた」
「お前の“汗”がなきゃ、穴が喉になってた」
短い言葉で十分だった。
互いの体が、もう全部を知っている。
門の上で、ロナが座り込んだ。
壺は空。
彼の肩に、老婆がそっと葉を掛ける。
祈らないまま、眠るための葉だ。
カサンドラは長机の端で板書に一本の線を引いた。
「黒炎、折れ」と。
文官は砂時計を伏せ、カイルは分水の栓をゆっくり閉じ、ラグは堀の縁で泥を掬って子どもに投げて笑う。
子どもは泥を受け取り、足で踏んで、土に戻す。
世界樹の枝が、ようやく眠たげに鳴いた。
眠らないはずの樹が、眠たげに。
それは、砦全体が安心して息をゆるめてよいという合図だった。
余章:残り火と、これから
黒炎は折れた。
だが、残り火は土の隙間に潜む。
油断すれば、祈りが熱を呼び、灰が喉を噛む。
今日勝ったのは、物語ではなく拍だ。
拍は毎日、刻み直す必要がある。
王国の副使と議会の使節は、境の小机の紙を抱えたまま立ち尽くしていた。
どちらの顔にも、敗北でも勝利でもない、妙な顔が浮かんでいる。
席に救われた顔、だ。
彼らは互いを見、俺を見、そして長机を見た。
やがて無言で一礼し、旗の方角へ歩き出す。
「捨て台詞も無いのね」
カサンドラが肩をすくめる。
「言葉はたくさん燃えたからな」
ミレイユが微笑む。「今日は、もう十分」
俺は湧き水に掌を落とし、脈を測る。
深い。静か。
世界樹は眠らない。
けれど今は、眠たげに、微笑っている。
「……終わりじゃない」
独り言のように呟くと、枝葉が小さくうなずいた。
砦はまた耕される。
葉幕は乾き、また湿り、湿土は固まり、またほぐれる。
堀は飲み、吐き、そして静かに巡る。
俺たちは祈らず、しかし約す。
畑を、生かす。
息を、繋ぐ。
席を、増やす。
黒炎の背骨が折れた音は、もう風に溶けた。
次に来るのは、言葉の波だろう。
紅月も王も議会も、今日のことを物語にしようとする。
その時、俺たちはまた席を出す。
誰のものでもない場所で、言葉に息を通す。
鍬を立て、柄に額を預ける。
泥の冷たさが心地よい。
遠くで子どもの笑い声。
近くで老婆の小言。
ラグの大声、カイルの短い返事、ミレイユの笑い。
ロナの寝息。
そして、世界樹の、眠たげな鳴き声。
拍は、今日も刻める。
明日も、きっと。
つづく