第18話「黒炎の序曲」
黒い風
灰祟りの夜を越えた翌日、砦には奇妙な静けさが漂っていた。
葉幕はしっとりと濡れ、湿土は厚く息をしている。
だが、空の奥に黒い筋が一本、東から西へ走っていた。
それは雲ではなく、風そのものが焦げた痕跡のように見えた。
「……あれが、“黒炎”の予兆だ」
カサンドラが声を低くした。
「灰祟りを退けた紅月が、怒りで禁じられた術に手を伸ばす。火と灰を一度に呼び、命そのものを燃やす」
「火でも灰でもねえ、“燃え尽き”だな」
ラグは拳を握りしめ、壁を叩いた。「どう防ぐんだ、そんなもん……」
「防ぐんじゃない。折り返すんだ」
俺は鍬の柄を握り直し、湧き水へ掌を落とす。
脈が熱を帯び、奥で静かに膨らんでいた。
「黒炎は“食う”。なら、食わせるものをこちらが選ぶ」
リオンからの文
昼、再びあの少年が駆け込んだ。
顔も衣も灰に汚れ、息を切らしながら布の包みを差し出す。
「リオン殿から……!」
開けば、簡素な文が三行。
――黒炎は九日後。
――紅月の祈祷師二十、火隊三百。
――“黒炎は燃やす前に飲む”。
最後に、赤い線で描かれた図が添えられていた。
円の中心に黒い渦。その外側に、白い波線が幾重にも取り巻いている。
文の余白に小さく記されていた。
『渦を囲え。飲み込ませろ。そして吐かせろ』。
「飲ませる……吐かせる……?」
ラグが首をひねる。
「つまり、黒炎は燃える前に“集める”。」
カサンドラが目を細めた。「集めた力を逃がす道を作れば、炎は内から崩れる」
「その道を、世界樹に掘らせるんだな」
俺は湧き水を覗き込んだ。脈は速いが、乱れてはいない。
世界樹はすでに理解している――飲み込み、吐き出す拍を。
人々の誓い
黒炎まで九日。
砦では再び、拍を合わせる準備が始まった。
葉幕隊……老婆を中心に、子どもたちが葉を編み直し、湿布で常に湿らせる。
湿土隊……ラグと傭兵たちが土を掘り、堀を深くして灰の沈殿を受け止める。
水脈隊……カイルが分水を調整し、脈を逆流させて“飲み込む渦”を形作る。
祈らぬ夜隊……ミレイユと文官が村人に説明し、“眠ること”を勇気に変える。
種守隊……遠い村へ種を届け、息の点を増やす。
皆がそれぞれの役を握り、砦全体が大きな呼吸の器となっていく。
火と灰に怯えていた人々の顔に、今は別の色が宿り始めていた。
それは“守る”というより、“繋ぐ”という覚悟だった。
黒き炎の前兆
五日後。
空の黒筋は広がり、夕暮れには東の地平から黒い霞が立ち上るのが見えた。
灰でも煙でもない、燃える前の“燃え滓”。
喉に重さを残す匂いが、砦まで届いた。
「……間違いない。奴ら、黒炎の準備を始めてる」
カイルが低く唸る。
「九日後、ここが燃えるかどうかで、王も議会も決まる。紅月はそれを狙ってる」
カサンドラの言葉は鋭かった。「だから――その日までに、私たちは“飲む道”を完成させる」
影の来訪
その夜。
門前にひとりの影が立った。
先日現れた祈祷師の若者だった。
彼は手に灰色の壺を抱え、深く頭を垂れた。
「……これは、反祟りの粉の残り。黒炎を呼ぶ前に、ひと欠片でも“祟り”をほどく力になる。だが、使えば私の命は尽きる」
「命を投げるな」
俺は鍬の先で壺を押し返した。「ここでは、命は“役目”だ。役目がある限り、投げ捨てるな」
若者は目を見開き、しばし沈黙した。
やがて小さく笑った。
「……なら、役目をくれ」
「ある。黒炎の夜、お前は“吐かせ役”だ。渦が飲んだ炎を吐く瞬間、粉を振れ」
若者は深く頷いた。その瞳に、祈祷師ではなく“息を繋ぐ者”の色が宿っていた。
決戦の夜へ
黒炎まで残り三日。
空は日ごとに暗さを増し、昼でも影が濃い。
民の心は揺れたが、砦の呼吸は揺らがなかった。
葉幕は湿り、堀は深く、脈は渦を刻み、机の上には民から寄せられた布や石が積まれていく。
そして――。
夜明けの鐘が三度鳴るころ、遠くの地平に炎の尾が立ち上った。
それは赤でも灰でもなく、漆黒に燃える舌。
黒炎の序曲だった。
「……来るぞ」
鍬を握り、湧き水に掌を落とす。
脈が応えた。熱を帯び、今までで最も力強い鼓動を。
――黒炎との決戦が、始まろうとしていた。