第17話「灰祟りの夜を越えて」
九夜の刻は近づいていた。
空は澄んでいるのに、風の底には常に乾いた粉の匂いが漂う。
世界樹の葉幕は網代に編ぎ直され、湿りの帯は外周でゆっくり呼吸を続けていた。
それでも、人々の顔に影は消えない。祟りは、火のように派手ではない。静かに喉を塞ぎ、命を奪う。だからこそ恐ろしい。
帰還
夜明け前、ミレイユと文官が戻った。
顔は煤け、衣は破れていたが、二人とも生きている。
背に抱えた皮袋を卓に置き、ミレイユは深い息を吐いた。
「学院の蔵書庫にあった……“灰除けの式”。ただし、完全ではないわ」
文官が震える指で羊皮紙を広げる。
そこには、祟りの灰を弱める四つの要素が記されていた。
葉幕 ― 生きた葉を編ぎ、灰を散らす。
湿土 ― 灰を沈め、喉を守る。
白樺汁 ― 水脈に混ぜ、根の脈を柔らかくする。
祈らぬ夜 ― 誰も祈らず、ただ眠る夜を作る。
「祈らぬ夜……?」
ラグが眉をひそめる。「そんなもんで灰が退くのか?」
「式にはこうある。『祈りは祟りを呼ぶ。眠りは灰を土に戻す』」
文官の声は掠れていた。「……理屈ではなく、伝承として書かれていた」
「理屈は要らん」
老婆が椅子を叩く。「やることは決まっとる。寝ればいい。――ただし、“皆で”」
準備
その日の午後から、砦は静かにざわめいた。
葉幕の補強、湿土の増築、白樺の樹皮の煮出し。
誰もが自分の手を動かし、灰を迎えるために拍を合わせた。
だが最後の条件――「祈らぬ夜」だけが、人々を戸惑わせた。
長年、祈りは守りであり、命を繋ぐ習わしだった。
それをやめるとは、信じる力を捨てるに等しい。
「……祈らない夜は、裏切りじゃないのか」
子どもが震える声で尋ねる。
老婆はその頭を撫で、「裏切りじゃない。息継ぎだ」と答えた。
「走り続ければ倒れる。祈り続けても、同じことじゃ」
その言葉が広がり、人々は少しずつ頷き始めた。
俺も心の奥で確かめた。
――祈りは時に、物語の“檻”になる。
眠りは檻を外し、ただ生きる音に戻す。
灰祟りの夜
九夜目の黄昏。
月は霞み、風が逆巻き、谷の向こうから白い帯が立ち上る。
灰だ。
光を反射せず、ただ空気を噛む粉の群れ。
やがて堀を越え、葉幕を叩き、湿土へ降り注いだ。
灰は音を持たない。
けれど、喉を刺す気配があった。
子どもが咳き込み、老婆が泥を口に当てる。
ラグが叫び、カイルが風裂きの溝を切り替える。
俺は掌を湧き水へ落とし、脈を広げた。
白樺の汁を混ぜた水が根を巡り、湿土を厚くする。
灰は沈み、波紋の中で泥に変わっていった。
――残るのは最後の条件。
人々は葉幕の下に身を寄せ、火も灯さず、声も上げなかった。
誰も祈らず、誰も歌わず、ただ横たわり、眠ろうとした。
最初は怖さに目を閉じられない者もいた。
だが世界樹の枝が静かに揺れ、葉が光を落とすと、瞼は自然と下りていった。
俺も鍬を横に置き、湧き水のそばに身を横たえた。
掌に触れる脈が、眠りの拍子を刻んでくれる。
灰は降り続けた。
しかし、祈りが立ち上らない夜、灰は“祟り”になれなかった。
粉はただの粉として沈み、風に削られ、土の肌に戻っていった。
朝
鶏の声とともに、朝が訪れた。
砦の内側に、咳き込む声はあっても、死の声はなかった。
葉幕は白く曇り、湿土は厚い層を作り、堀の底には泥の丘がいくつも積もっている。
老婆が天を仰ぎ、ゆっくりと言った。
「……息は、続いた」
歓声ではなく、深い安堵の吐息が広がった。
人々は互いの肩を叩き、子どもは水を飲み、眠気の残る目で笑い合った。
世界樹が葉を降らせた。
一枚は厚く、一枚は薄い。
厚い葉は砦へ、薄い葉は遠い村へ――そう告げるように。
予兆
その朝、使いの少年が再び駆け込んできた。
息を切らし、額に灰をこすりつけたまま。
「リオン殿から……! ――紅月が、灰に失敗した怒りで、“黒炎”を起こすと!」
黒炎――。
火と灰を掛け合わせ、命そのものを焼き尽くすと伝えられる禁じられた術。
王国も議会も、それを恐れて声を上げるだろう。
だが、止められるかどうかは別の話だ。
俺は鍬を握り直し、湧き水を覗いた。
脈はまだ穏やかだ。だが次の嵐に備えて、深い呼吸をしている。
黒炎。
祟りよりも、火よりも恐ろしい。
それを越えるためには、土も水も、人の息も――さらに固く繋がらねばならない。