第16話「灰祟りの月へ向けて」
夜明けの前、世界樹の葉がひときわ細かく鳴った。
湿りを含んだ風が東から差し込み、葉幕の網代をやさしく押し広げては戻していく。
堀は落ち着いており、外周の“風裂き”の溝には、昨夜からの薄水が静かにたまっていた。灰が来れば、ここに落ちる――そういう呼吸が砦の全体に行き渡っている。
ミレイユと若い文官は、まだ暗いうちに出発した。
世界樹の根が少しだけ地面を盛り、彼らの足跡を隠して飲み込む。
老婆は二人の背に、泥と酢を含ませた布を忍ばせた。「喉が焼けたら噛め」と。
カイルは谷の狭窄部へ、ラグは“種守”の子らを率いて西の小村へ、それぞれ動く。
テールは門の内側で蔓を編ぎ、葉幕の破れを縫っていた。黒糸ではなく、緑の糸で。
俺は湧き水に掌を落として脈を測る。
深い。速すぎず、しかし遠い場所まで届く深さだ。
指先の皮が薄く張り替わっているように感じられる。水と土をさわり続けたせいだろうか――いや、世界樹が“仕事の手”へ形を合わせてくれているのだ。
長机の上には、昨夜増えた紙が重ねられている。
王国副使の礼辞、議会の告知、紅月の黒紐。
紙はどれも乾いており、火の匂いは抜けているのに、不思議と手に持つと湿っていた。人の吐いた言葉は、いつだって水を欲しがるのだ。
「守り人」
葉幕の陰からカサンドラが現れた。
髪はひとつに結われ、顔に疲れはあるが、目が冴えている。
「学院へ向かった二人、追跡は?」と俺。
「今のところ無し。王都周辺は王印と議会印が互いを牽制していて、追っ手を出しづらい。……けれど、紅月側の“灰の祈祷師”は別。連中は印も命令書も持たない。風に乗る」
風に乗る。
言葉の比喩で済めばいいが、祈祷師という名の術者たちが本当に“風路”を使うなら、こちらの溝の地図を読み替えられる可能性がある。
「風を“乱数化”する」
俺は根の壁に指先で点々を打つ。「一定の間隔で溝を切り替えず、夜ごとに枝をずらす。世界樹の脈で刻んで、外側へ“偽の拍”を漏らす」
「偽の拍、ね。――人間相手の政治でも使いたい手だ」
カサンドラが笑った。「よし、書式に起こす。夜番に渡す」
そのとき、門の方から短い角笛。
合図は“使い”。敵でも味方でもない、届け物だ。
現れたのは、痩せた騎馬の少年だった。
王都の色でも紅月の色でもない、灰色の粗布。
喉は乾き切っているが、目ははっきりしている。
「……これを、リオン殿から」
少年は鞍袋から小さな布包みを出した。
中には、薄い木札が数枚。端に刻まれた印は、王国の古い測量符号――“風程印”。地図がなくとも距離と方角を割り出せる、昔の旅人の道具だ。
木札の背に、短い書きつけ。
『灰は山影に沿い、谷の背で“逆さ雨”になる。――風裂きの模倣を、もう一段、外へ』
リオンの筆だ。
彼は戻った。戻った上で、内部の“灰派”から聞き出したのだろう。
木札は三つ。
それぞれ別の谷の角度に合わせて刻んである。
俺は湧き水へ札を浸し、指で撫でる。木が水を吸い、刻みの溝が柔らかく光った。
「少年、お前はどこから来た」
「風載りの石橋の下から。……リオン殿は、ここを“家”と呼べばいい、と言った」
家。
その一語が、砦全体の空気を少し変えた。
俺は少年の額に軽く葉影を落として水を飲ませ、ラグの仲間に預ける。
帰り道の靴に湿りを足してやれば、砂の道で足が裂けずに済むからだ。
*
午後、最初の“逆さ雨”が来た。
空は晴れているのに、山影の上から灰の帯が降りてくる。
粉は軽く、風に合わせて蛇のようにくねり、谷筋をなぞってこちらへ伸びる。
「葉幕、風裂き、湿りの帯――全部、拍で動かす!」
俺は角笛を二度鳴らし、堀の脈と合わせた。
葉幕が網代でたわみ、灰の帯を網の隙目へ分解する。
風裂きの溝が灰の道を拾い、湿りの帯へ落とす。
粉が水に触れると、音もなく沈んだ。
沈殿は堀の底へ流し、後から泥として掬い上げる。
“祇祷の灰”は、思っていたよりも素直に落ちた。
だが、それは最初の一口目だからかもしれない。
祈祷師たちは観察するはずだ――俺たちの“拍”を。
夕刻、風がひときわ強くなった。
今度は灰が、渦になって降りる。
葉幕の一枚が悲鳴を上げ、網代が破れた。
テールが飛びつき、緑の糸で即座に繕う。
黒糸なら切創を作るだろうが、緑の糸は“吸って”粘る。
彼の指の動きは、もう刺客ではなく職人だ。
「喉は?」
俺は走り抜ける少年の背に声を投げる。
「生きてる!」
少年は葉の膜越しに歯を見せた。「婆さまの泥が、喉に壁を作る!」
老婆が笑いながら泥を搗き続ける。
その笑い声は、火の夜には出なかった音だった。
二度、三度の“逆さ雨”をやり過ごすころ、空は薄群青に変わった。
風が一段落ち着き、世界樹の葉が細かい呼吸を取り戻す。
堀の底に沈んだ灰は、思った以上に重く、流すにも力がいる。
俺は水脈へ【水やり】を落とし、底の灰を“塊”で運ぶイメージを作った。
根がそれを飲み、堀の底で小さな丘となった灰が、ゆっくりと外へ押し流されていく。
「……灰の祟り、第一波は凌いだな」
カサンドラが肩で息をして、長机に手をつく。「次は観察を踏まえて、曲げてくる」
「曲げた先にも、息の道を作る」
俺は頷き、木札をもういちど撫でる。「“風程印”、助かる」
「リオンからか」
彼女は紙束を整えながら、ふと目を細めた。「王の宮中は今、英雄を『戻った息子』として祭り直している。でも、彼自身は、こちらへ“ひとりの客”として帰る場所を持ち始めている。――あの二重性、いずれ王か紅月か、どちらかが耐えられなくなる」
「耐えられなくなる前に、息の点を増やす」
俺は西の道を見た。
日はすでに沈み、種守の隊はまだ戻らない。
だが、世界樹の根のどこかで、遠い脈拍が小さく跳ねた。
芽吹きではない。まだ“粒”のままだ。
けれど、息は確かに移されている。
*
夜半、門の木影に、細い影が立った。
合図もなく、音もなく。
緑の糸が先に動き、影の足首をやさしく止めた。
「敵意はない」
影は囁いた。仮面はつけていない。
星明かりで見ると、頬に火の痕、腕に祈祷印。紅月の祈祷師の若者だ。
「ここで灰が落ちるのを、見たかった。祟りが通らなかった理由を」
彼は目を細め、堀の光を覗き込んだ。「……きれいだ」
「祟りじゃない、灰だ」
俺は言い直した。言葉は“印”になる。「粉は落ち、泥になる。泥は、畑の肌になる」
「祟りであってほしい者たちがいる」
若者は苦笑する。「祈祷師は“祟り”が仕事だ。祟りが解ければ、食い扶持が減る」
「俺たちは“祟り”を食い扶持にしない。畑を食い扶持にする」
若者はしばらく黙り、袖から小さな包みを出した。
中には、灰とは違う薄い粉末――月の粉、とでも呼ぶべき白さ。
「反祟りの粉。……祖母から受け継いだ。祟りを生む粉があれば、祟りをほどく粉もある。連中に見つかれば、私は灰の喉に落とされる。――だから、ここへ持ってきた」
カサンドラが目を細めた。
「代価は?」
「代価?」若者は首を傾げ、困ったように笑った。「代価を取る頭があれば、祈祷師なんてやっていない。……願いがあるだけ」
「言え」
「いつか、ここで“祈らない夜”を過ごしたい。祈る代わりに、眠る夜を」
世界樹がそっと鳴った。
俺はうなずいた。「約束する」
若者は包みを置き、風の影に溶けていった。
緑の糸がほどけ、葉幕がふたたび静かに呼吸を始める。
粉を湧き水に近づける。
水は嫌がらず、むしろ薄く明るむ。
小指の先ほどだけ溶いて、堀の上流へそっと落とす。
波紋が広がり、沈んだ灰の縁が少し柔らかくほどけた。
「……祟りの逆拍子、ね」
カサンドラが記録用の板に一行、刻んだ。「覚えておく」
*
明け方、ラグと“種守”の子らが戻った。
泥にまみれ、息は上がっているが、目は輝いている。
背負い袋は軽く、代わりに小さな石や布切れが増えていた。
石には、村の子どもが描いた世界樹の絵。布には、麦の穂の刺繍。
どこかの家の戸口にかけられていたのを、持たされたのだろう。
「――預かった。『ここにも息がある』って書いてある」
ラグが照れたように笑う。「字が間違ってるけど、息は合ってる」
「息は、合っていればいい」
俺は石を長机の端に、布を葉幕の柱に結びつけた。
それだけで、砦の呼吸がわずかに軽くなる。
最後に、遠い脈がもうひとつ。
ミレイユからの短い文が、夜明けの風に乗って届いた。
学院の蔵書より――『古き灰除け:葉幕・湿土・白樺汁・“祈らぬ夜”』。
末尾の走り書きは、彼女の癖字でこう結んでいた。
『どれも、ここにもうある。――帰る』
世界樹の葉が、朝の最初の光を受けてきらりとひかり、ひとひら、俺の掌に落ちた。
厚い葉と薄い葉。
厚い方はここに、薄い方は旅へ。
九夜は、もう遠くない。
灰は再び来る。
言葉も、剣も、火も、風も。
それでも、畑は今日も息を通す。
息の点は増え、線は繋がり、面は広がる。
それが“根の誓盟”だ。
人と土と水と、そして世界樹が結ぶ、言葉より長い契り。
鍬を握る。
脈は深く、拍は合っている。
――さあ、耕そう。
九夜後の空に向けて、今日の畝を。