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第13話「無音の対話、風の剣」

 朝の冷気が砦の輪郭をくっきりと縁取り、世界樹の枝葉は露を抱いて煌めいていた。

 堀を巡らせた水脈は、夜のうちにわずかに増水している。山の雪解け水が地下で合流したのだろう。光の粉を含んだ水がさざめくたび、苛立ちと恐れでざらついていた胸が、ほんの少しだけ静まる。


 砦の内側では、それぞれの朝がせわしなく動いていた。

 子どもたちは両手で水桶を抱えて駆け、女たちは薬草を刻み、男たちは根の壁に継ぎ目を増やす。

 ラグが二本の杭を肩に担いで走ってくる。


「アレン様、北側の落とし穴、さらに二つ増やした。罠紐は小川の柳で編んだから、多少引っ張られても切れない。――それと、カイルが呼んでる。外縁に、妙な影が見えたって」


「妙な影?」


「旗じゃない。人影だ」


 思わず世界樹の上を仰ぐ。

 葉は静かにたわみ、返事のように露を落とした。

 鍬の柄が掌にしっくり馴染む。俺は頷き、ラグとともに北側の見張り台へ向かった。


 見張り台では、カイルが望遠筒を覗いていた。

 紅月国の鎧ではない、柔らかな旅衣。顔を覆う薄布。

 影は一度も旗を掲げず、足跡を消すような歩幅でこちらに近づいて来る。


「刺客か?」ラグが手を壁にかけた。


「いや、違う」

 カイルはゆっくり筒を下ろした。「使者だ。ただし紅月でも王国でもない……個人の使者。剣を帯びてはいるが、刃に油がない。戦う気より、走って逃げる気配が濃い」


「逃げる気配って見えるのかよ」


「見えるさ。足首、かかとの使い方に出る。追っ手から逃げて生き延びてきた足取りだ」


 影は堀の向こうで立ち止まり、両手を上げた。

 布の隙間から、柔らかな声が届く。


「……水を、一杯。話はそれからでも?」


 緊張が一段下がる。

 俺は頷き、堀の手前にある渡し板の仕組みを解除した。

 板は根の関節へ吸い込まれるようにせり出し、相手の足元に橋を架ける。

 使者は渡らず、板の上に膝をついて頭を垂れた。ここまで来ても境界を越えない、という礼儀に見えた。


 湧き水を汲んだ木杯を、渡し棒の先に括って差し出す。

 使者は浅く一礼し、一気に飲み干した。

 喉が上下し、体の強張りがゆるむ。


「名を」俺は短く問う。


「ミレイユ」

 布の下で唇がかすかに笑う。「元・勇者隊の魔導師」


 名前の響きが、胸の古傷を指で押すようにはっきり疼かせた。

 焚き火の夜――追放を告げられた夜――あの金髪の背と、白く冷えた横顔。彼らの輪の中に、たしかにミレイユはいた。


「……何の用だ」


「二つ。ひとつは伝言」

 彼女は視線だけで周囲を見た。「静かなところはある? それが叶わないなら、せめて“無音”にして」


 俺はうなずくと、世界樹の根元へ歩いた。

 小さな円形の広場――枝葉の落ちる範囲の中心に、風を断つ仕掛けがある。

 根が細かい格子を作り、葉が層になって音を吸い取る。

 俺たちはそこへ誘い、腰を下ろす。カイルとラグは周囲に散った。


 ミレイユが布を外す。

 煤の匂い、風の乾き。顔立ちは痩せ、頬に旅塵の影。けれど瞳の色は、かつてと同じ深い群青だった。


「伝言、頼まれてきたの」

 彼女は指の関節をぎゅっと握り、言葉に力を込める。

 「――『明後日、薄暮。丘の“風裂き”で会いたい』。差出人は、リオン」


 風裂き。

 この大地に古くからある浅い谷。夕暮れになると、山の向こうから一気に風が吹き抜ける。その時刻、音が逆流し、耳が詰まるほど静かになる――無用の耳が働かない“約束の場所”。


「罠か?」俺の声は乾いていた。


「……罠でもあり、そうでなくもある」

 ミレイユは苦笑した。「今のリオンは“勇者”として紅月に利用されている。でも、すべてを委ねているわけじゃない。彼は、あなたにしか相談できないことを抱えている」


「俺にしか?」


「あなたは、追放された。最も遠く、最も近い相手だからよ」

 彼女は視線を落とす。「もうひとつ。――王国は、あなたを見捨てる」


 言葉が胸に刺さる。

 静かに頷いた。「わかっている。任命は鎖だ。助ける気があるなら、とっくに兵を寄越している」


「……ごめんなさい」

 ミレイユは拳を握った。「止められなかった。私は“勇者隊”にいたけれど、あの場であなたを庇えば、私ごと切り捨てられていただろうって……怖かった。言い訳よね」


「今、ここで謝られても、土は軟らかくならない」


「ええ。それでも、謝りたいの。……そして知らせたい。紅月は三日後に“大祓い”を行う。名目は疫禍払い、実際は『世界樹の力場』を計測する儀式。リオンの聖剣に結界を重ね、世界樹の根に“印”を打つつもり」


 嫌な寒気が背骨を走った。

 根に印――目に見えぬ標を刻まれれば、加護の流路が逆探知される。

 堀の水脈も、壁の硬度も、弱点も、すべて暴かれる。


「対策は?」


「“印”は、剣が振り下ろされる瞬間、同じ線を別の意志で“上書き”すれば打ち消せる。けれどそれができるのは、世界樹の流れを手で感じられる者だけ」

 群青の瞳が、まっすぐ俺を掬う。「あなたしかいない」


 息を吸う。

 掌の記憶――芽吹きの朝、指先で土の震えを拾った感覚。堀に糸を落とすと脈打ちが返ってくる、あの手応え。


「……会うよ」

 自分でも驚くほど、声は淡々としていた。「風裂きで。だが条件がある」


「聞くわ」


「城郭の術数に詳しい文官をひとり。あと、紅月の陣の糧秣経路を地図にした案内。三日後までに欲しい」


「用意する。命がけで」


「命は簡単に賭けるな」

 俺は世界樹の幹に軽く触れた。「……借りる」


 ほんの一瞬、根が鳴り、葉が舞った。

 ミレイユの肩に二枚、温い光が落ちる。

 それが彼女へ渡す、こちらからの“信用”。


 別れ際、ミレイユはふと戻って言った。


「追放の夜、私、あなたに言いかけたことがあったの。“役に立たない”なんて、あの場の誰にも言わせたくなかった。……遅すぎるけど、今、言う。――あなたの水は、私が見たどの奇跡よりも『生き物』だった」


 返す言葉が見つからない。

 彼女は布を顔に戻し、風に溶けた。


 無音の円に一人残され、俺は掌を見つめる。

 水は、土に落ちると音を消す。

 だからこそ、ここで言葉を選ぶのだ。


 明後日、薄暮。風裂き。

 リオン。

 俺は、お前の目に何を見るだろう。


 *


 準備は、“静かに派手に”進めた。

 静かに――敵に悟られぬよう、堀の内側で根の重ねを二重三重に。

 派手に――人の心が萎れぬよう、作業のたびに世界樹の葉を降らせ、灯を増やし、子どもたちに役目を渡す。


 ラグは罠線を張り巡らし、老婆は乾いた薬包を山ほど作ってくれた。

 カイルは紅月の斥候線を読んで、見張りの交代刻を僕に教えた。

 カサンドラは王国の文官文体を模して、こちらの“通達”を偽造した。――『世界樹周辺は疫病多発につき、王命で一時封鎖』。封蝋の紋まで完璧だ。

 これで不用意な“野次馬”を減らせる。民を盾にされるのが、いちばん厄介だから。


 夜、根の壁を撫でると、微かな震えが指に触れた。

 世界樹は眠らない。眠らないから、こちらの眠気を一部、引き受けてくれる。

 目の奥の重みがすっと薄れ、代わりに足裏に温度が戻る。

 ありがたい。だが甘え過ぎないように、壁にもたれずに立っていよう。


 *


 そして――約束の時が来る。


 薄暮。

 風裂きの谷を、風が満たす。

 地形が作る定時の呼吸。空気が吸い込まれ、吐き出されるたび、周囲の音が吸われていく。鳥の羽音さえ遠ざかり、草の擦れ合いまでが眠る。

 ここでは嘘が響き過ぎる。だから“無音”を選ぶのだろう。


 先に立っていたのは、一本の影。

 斜面の杭に背をあずけ、風で髪が揺れる。

 金の糸……夕焼けのせいか、色がいっそう鋭い。


「久しいな、アレン」


 声は、昔と同じ高さだった。

 けれど、芯に石が入っている。重い沈黙を押しひろげる“道具”としての声。


「久しいな、リオン」


 互いに間合いの外。

 剣帯。鍬。どちらも抜かない。


「――ここは、お前に会うために選んだ」

 リオンは風上に目を細めた。「音が邪魔をしない。誰にも聞かれず、誰にも届かない」


「聞かれちゃ困る話か」


「王にも、紅月の将にも、聖職者にも、だ」


 目だけで笑う。

 俺は息を整え、先に切り込む。


「勇者が、紅月に降った理由を聞こう」


 風がひゅうと抜ける。

 リオンは目を伏せ、「降ってはいない」と答えた。


「利用している。やつらの“勝利の絵”に、俺の顔を描かせている。……そうするしか、世界樹を戦の道具にされない方法が、今のところ見えない」


「王国に留まって、同じことはできなかったのか」


「できない」

 短い刃のような否定。「王は恐れている。世界樹が王権を軽くすることを。お前が『守る』と言うほどに、王は『取り上げる』と言う」


 喉の奥が乾いた。

 俺は風で湿り気を舐め、言葉を選ぶ。


「それで、お前は“印”を打つつもりか」


 リオンの睫毛がわずかに揺れた。

 剣の柄に置かれた右手。力は入っていない。

 しかし、言葉は抜いた。


「“印”は戦を止めるための“留め金”だ」

 彼は空に細い線を描いた。「紅月の術者は、世界樹の力場を数式に落とし、軍略に繋げようとしている。俺は逆に、数式の“穴”で彼らの解析を誤らせる。“印”を偽物にすり替える。……ただ、その瞬間だけ、お前の手がいる」


「上書き、だな」


「そうだ」

 リオンは初めてこちらを見る目で俺を見た。「お前の水は『生き物』だ。俺の聖剣が線を刻む瞬間、同じ線をお前の水で撫でろ。世界樹にとって“どちらが本物か”は一目でわかるはずだ」


「なぜ、俺なんだ。ミレイユでも、他の誰でも――」


「できない。……お前は“追放されたから”できる」


 意味が、遅れて落ちた。

 追放。輪から外れた者。

 世界樹が芽吹いた朝、俺は誰の命令でもなく指を土へ落とした。

 権威の匂いがしない水――だから、根がよく飲んだ。


「俺は、お前をあの夜、切った」

 リオンは低く続ける。「俺は、間違えた。『勇者の速度』に合わせて、弱い輪を切れば、強い方角へ進めると信じた。だが世界樹は、弱い輪だと思っていたお前の水でしか芽吹かなかった」


「弱い輪、ね」


「すまない」

 風が一枚、葉の形を撫でて流れた。

 謝罪は短いほうが深く刺さる。

 俺は返さず、明後日の段取りを訊いた。


「儀は三日後の黄昏。将軍は三。術者は二。お前と俺は中心へ。ミレイユが合図を出す。お前が上書きできたら、俺は“誤った式”を確定させる」


「万が一、上書きが間に合わなかったら?」


「俺が剣を止める。腕の一本で済むなら、安い」


「やめろ」

 思わず声が荒れた。「お前が片腕になったら、紅月は“信仰の装置”としてお前をもっと使う。英雄の傷は、いつだって物語の燃料だ」


 リオンの口元が、少しだけ歪んだ。

 昔なら、それは笑いの前触れだった。今は違う。

 疲れと、決意の位置が変わってしまった人間の顔。


「――アレン。俺は、お前に“守る”を強いた。あの夜からずっと。

 今度は、俺が“守らせてくれ”と言う番だ」


 言葉が風に揉まれて、無音の谷に沈む。

 俺は鍬の柄を握り直し、短く答えた。


「やる。だが、条件がある」


「またか」


「この段取りが済んだら、お前はここへ来い。剣を置けとは言わない。ただ、ここで一夜、眠れ。世界樹の下で“勇者じゃない”お前でいる時間を作れ」


 眉の間で、短い沈黙がほどけた。

 リオンはうなずく。「約束する」


 風が弱まり、遠くの鳥の声が戻ってくる。

 無音の時間は終わりだ。

 俺たちは互いに背を向け、谷を離れた。


 *


 戻ると、砦の空気は張りつめていた。

 ミレイユが持ち帰った文官と、粗いが精確な糧秣路の図が卓に広げられている。

 文官は白い指で数式の端を書き直し、カサンドラがそれを素早く読み下す。

 ラグは手を止めずに聞き、カイルは通り道の目印となる石や木を頭の中へ写していく。


「上書きの瞬間、堀の水を一拍だけ逆流させられるか」

 カサンドラが顔を上げる。


「やってみる。世界樹が嫌がらなければ」


「嫌がらないように、事前に“飲ませて”おく」

 文官が恐縮気味に言う。「微量の鉱塩と、白樺の樹皮を煮出した液。力場の乱れを穏やかにする。――王立学院では禁忌に近い手法だが、ここでは倫理より生存だ」


「やってくれ」


 手順が決まり、夜はさらに深くなる。

 俺は湧き水の縁に座り、掌を水へ。

 脈が返ってくる。

 人の脈より少し速く、土の脈より少し遅い。

 そこへ、白樺の液をほんの一滴、落とした。

 水は微かに甘い匂いを抱え、根の奥へと運ぶ。


「ごめんな」

 誰にともなく呟く。「ちょっとだけ、無理をさせる」


 葉が一枚、頬に触れて落ちた。

 許すでも、叱るでもない、ただの確かな触れ方。


 *


 三日後――黄昏。


 世界樹の上空は薄紫に溶け、風裂きの谷には人の気配が濃く集まり始めていた。

 紅月の赤い旗、金糸の刺繍。将軍の甲冑は獣骨の意匠で威を示し、術者は白い仮面で顔を隠す。

 遠巻きに民もいる。噂を嗅ぎつけた者。祈りにすがる者。

 カサンドラの偽通達は多くを防いだが、それでも“物語”は民を呼び寄せる。


 俺はフードを深く被り、ミレイユに導かれて印の中心へ歩く。

 地面には術式の円。外周の護符。

 数式はわざと穴だらけに――リオンが書き換えた跡だ。

 穴の位置を頭に叩き込み、俺は堀の脈と合わせて指の節に記憶させる。


「深く息を吸って」

 ミレイユの囁きが耳に落ちる。「合図は、私が仮面の術者の袖を払う瞬間。そこから、三拍」


 三拍。

 長いとも、短いとも言えない。

 だが、世界樹の脈で数えれば、確かな時間になる。


 将軍が声を張り上げ、偽善と本心の混じった祝詞が谷に広がる。

 民のざわめきが遠い。

 俺は足裏で、根の呼吸を数え始める。


 そして――彼が歩み出る。


 勇者の剣は光を飲み、形を細くする。

 剣先が円の中心に向かい、空気が強張る。

 リオンの横顔に、昔の影を探す自分がいる。

 だが、探しているうちは、手が鈍る。


 ミレイユの指が袖を払った。

 合図。


 一拍。

 俺は掌を地へ落とし、水の糸を解く。

 堀の水脈が、約束通り一拍逆流する。

 根の脈と水の脈が重なり、線が立ち上がる。


 二拍。

 リオンの剣が落ちてくる。同じ線。

 刃が刻む数式は、意志の力で押し通そうとする“偽”。

 俺の水は、“生きる側”の線だ。


 三拍。

 交わる。

 剣先が刻む瞬間、俺の水が上から撫でる。

 “どちらが本物か”は、根が決める。


 ――沈黙。


 谷を満たしていた祝詞が、ふっと消えたように感じた。

 術者の仮面が鳴り、将軍の肩がぴくりと跳ねる。

 世界樹の脈は、乱れない。

 “印”は、飲み込まれ、溶けた。


 次の瞬間、将軍が吠えた。

 「裏切り者がいる!」


 剣が抜かれ、矢が鳴る。

 民の悲鳴。

 ミレイユが俺の腕を引く。

 リオンの剣が横薙ぎに閃き、最前列の槍を柄ごと折った。


「退け!」彼の怒号は、かつての進軍合図のように冴えている。

 「これは儀の終いだ! ――逃げろ、アレン!」


 走る。

 谷の勾配を、靴底で噛むように踏む。

 背で風が逆巻き、矢が三本、肩口を掠めた。

 ミレイユが身をひねり、袖から黒い粉を撒く。

 乾いた草に当たって煙が上がり、視界が曇る。


 カイルの影が横から滑り込み、俺の背を押した。

 「こっちだ!」


 谷の脇道。

 事前に刻んでおいた根の“関節”が、土の扉のように開く。

 そこへ身を投げ、滑り込む。

 背後で、リオンの足音がいったん近づき、すぐ離れていく。

 彼は別の方向で追っ手を切ってくれるのだ。


 土の匂い。湿り気。

 闇が肺へ入って、心拍を落ち着かせる。

 世界樹の脈は、静かだ。

 ――上書きは、成功した。


 *


 砦へ戻ったとき、夜はまだ若かった。

 堀の水は星を映し、根の壁は薄く発光している。

 ラグが駆け寄って俺を抱き止め、老婆が泣き笑いで頬に薬を塗った。

 カサンドラは手短に状況を確認する。


「“印”は?」


「飲み込ませた」


「よし。……紅月は混乱している。明日には“失敗の理由探し”で内部が割れるはずだ。こっちはその隙に、外周罠をもう一段階増やす。民は内側に。――ミレイユ、傷は?」


「擦り傷だけ」

 彼女は肩で笑う。「それより、明日リオンが来る。約束を守る人だから」


 俺の胸の奥が、静かに熱くなる。

 「勇者じゃない」リオンに、一夜を与える約束。

 世界樹の下の、寝息の重さ。

 それを守るには、砦全体の息を整えなければならない。


 夜半過ぎ、俺は湧き水の縁に座り、掌を落とした。

 脈は、相変わらず確かだ。

 そこへ、もうひとつ、柔らかな脈が重なる。

 遠くから歩いてくる足音のリズム。

 鍬をそっと立てかけ、振り向いた。


 ――リオンが立っていた。

 剣は帯びている。だが、鞘の口に紐がひと巻きされている。

 抜かない剣の仕草。

 彼は視線で許しを乞い、俺は顎で世界樹の影を示した。


 枝葉の下に敷いた粗末な寝台。

 ミレイユが湯を差し出し、カイルが外の見張りを買って出る。

 カサンドラは何も言わず、腰の短剣を外した。

 皆、知っているのだ。

 今夜だけは、“物語”を降ろす夜だと。


 リオンは寝台の端に腰を下ろし、濡れた泥を指で払った。

 俺は湧き水を一杯、差し出す。

 彼は一口含み、顔を上げた。


「……夢を見た」

 囁くように言う。「焚き火の夜の続きだ。あの夜、お前に『すまない』と言わなかった夢だ」


うつつで言えばいい」


「言う。すまない、アレン」


 波紋が胸の内側で広がる。

 痛みと、静けさと、どちらにもよく似た温度。


「明日の朝まで、ここで眠れ」

 俺は首で合図した。「世界樹は、眠らない」


「なら、俺の代わりに見張ってくれるな」

 微かな笑いが、ようやく唇に戻る。

 彼は横になり、目を閉じた。

 枝葉の影がまぶたに落ち、呼吸が深くなる。

 勇者の肩から、英雄の物語が一枚、すっと剥がれ落ちる音がした。


 俺は立ち上がり、砦の輪郭を見回した。

 堀は静かに回り、壁は呼吸し、人々の寝息が重なる。

 世界樹の葉が、ひとひら、俺の掌に落ちて溶けた。

 それは“守る”という言葉の、明日の分の重さだった。


 夜明けまで、長い。

 けれど、怖くはなかった。

 無音の対話は済んだ。

 風の剣は、今は鞘にある。

 そして朝が来れば、畑はまた、耕される。


 ――守るために。

 ――生きるために。

 ――物語から、ほんの少し離れるために。

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