第12話「砦の影、勇者の光」
朝焼けが砦を包む。
世界樹の枝葉が黄金に輝き、降り注ぐ光の粉は、戦の痕跡を優しく覆い隠していた。
それでも、地面に残る血の跡は消えない。
あの日、俺たちは勝った。だが――本当に勝ったと言えるのか。
勇者リオンが紅月国に与した。
その報せは人々の心を深く揺らしていた。
「勇者さまが……敵に?」
「本当にそうなのか? 何かの間違いじゃないか……?」
老婆は震える手で祈りを捧げ、子どもは母の裾にしがみつく。
傭兵たちですら、表情は曇り、剣を研ぐ音は重かった。
勇者とは、王国の象徴であり、人々の希望だ。
その男が敵に回るなど、誰が信じられるだろう。
俺自身もまだ、心の奥で否定したい思いがあった。
だが、ラグが見たという事実。
カイルの警告。
それらはすべて、俺を現実に縛りつけていた。
その日の午前、砦の会議が開かれた。
カサンドラ、傭兵頭のラグ、紅月国の密使カイル、そして村人代表の老婆。
皆が焚き火を囲み、言葉を交わした。
「……現状を整理しよう」
カサンドラが口を開いた。
冷徹な目は、疲労の影を隠さなかった。
「王国はアレンを『正式管理者』に任じたが、それは守るという約束ではない。勇者が敵になれば、王はそちらを優先するだろう。つまり、我々は王国からも紅月国からも孤立する可能性が高い」
老婆が呻くように言った。
「ならば、わしらはどうすればいいのか……? 勇者さまと戦えるはずがない」
ラグが拳を握り、声を張る。
「戦えるかどうかじゃねえ! 戦うしかねえんだ! ここを捨てろっていうなら別だが、俺は嫌だ!」
焚き火の火が揺れ、人々の顔を赤く染める。
カイルが低く言った。
「紅月国は勇者を利用している。彼が本当に心から従っているのかはわからない」
その言葉に俺は反応した。
「どういう意味だ?」
「紅月国の将軍たちも、勇者を完全に信用してはいない。だが民衆の象徴として利用価値がある。……リオンが彼らの操り人形かどうかは、まだわからない」
胸がざわめく。
リオンが自ら選んだのか、それとも利用されているのか。
真実は見えない。だが、どちらにせよ剣は向けられる。
「いずれにせよ、砦を強化する必要がある」
カサンドラが地図を広げる。
「根の壁をさらに厚くし、水脈を二重に巡らせる。外周には落とし穴を増やし、入り口は狭めろ。敵が千で来ても、百でしか攻め込めぬようにする」
ラグが頷き、傭兵たちが立ち上がる。
「すぐに取りかかろう!」
老婆も小さな声で言った。
「子どもたちにもできることがある。水を運ぶのは、あの子らに任せよう」
人々の顔に、少しずつ光が戻っていくのを感じた。
勇者を恐れる声は消えていない。
だが、それでも皆は立ち上がろうとしている。
その夜。
俺は砦の外れで鍬を振っていた。
体を動かさずにはいられなかった。
鍬が土を裂く音が、頭の中のざわめきを振り払ってくれる気がした。
そこへカイルが現れた。
「眠れぬか」
「ああ」
鍬を突き立て、息を整える。
「お前は……勇者リオンをどう見る?」
カイルは少し考え、答えた。
「強すぎる。だからこそ孤独だ。国も、仲間も、彼を完全には抱えきれない。……紅月国はそこを突いたのだろう」
強すぎるがゆえに孤独。
それは理解できる気がした。
だが、それならなぜ俺を追放したのか。
胸の奥の傷は、まだ疼いていた。
翌日から、人々は一斉に砦の強化に取りかかった。
男たちは根の壁を編み直し、女たちは薬草を煮詰めて癒やしの薬を作る。
子どもたちは水を運び、遊び半分に罠作りを手伝った。
「アレン様! 見てください!」
少年が叫ぶ。
小さな落とし穴に木の杭を立て、葉で覆っていた。
「これなら敵も落ちますよ!」
笑いが広がり、希望の灯が少しずつ強くなる。
世界樹も応えるようにざわめき、葉を落とした。
それを拾い集めると、熱を帯びたように温かかった。
きっと、加護の証なのだろう。
だが、静かな日々は長くは続かなかった。
三日後、偵察から戻った兵が叫んだ。
「敵陣に勇者リオンが姿を現した! ……紅月国の将軍たちと肩を並べていた!」
人々の顔が青ざめる。
老婆が震える声で呟く。
「勇者さまが……本当に敵に……」
そのとき、世界樹の枝が大きく揺れ、ざわめいた。
光の粉が降り注ぎ、俺の肩に触れる。
その温かさに、心が静まっていく。
「……たとえ勇者が敵でも、俺たちは退かない」
言葉が自然に口をついた。
人々が顔を上げ、次々に頷く。
恐怖は消えない。
だが、それでも希望は消えない。
その夜、俺は夢を見た。
暗い森の中、リオンが立っていた。
かつての仲間の顔。だがその目は、冷たく揺らいでいた。
「アレン、お前はまだ鍬を振るっているのか」
「俺は俺の畑を守る」
「愚かだな。お前の力では、国も民も守れはしない」
剣が抜かれる音が響いた。
光を帯びた剣が俺に迫る――。
そこで目が覚めた。
息が荒く、額には汗が滲んでいた。
だが、不思議と恐怖はなかった。
夢の中のリオンの目は、迷いを含んでいたからだ。
翌朝。
砦に王国から新たな使者が来た。
白地の旗を掲げ、数騎の騎馬を従えている。
「アレン・ロウ。王は汝に命ずる。世界樹を守れ。ただし、その加護を王国のために差し出せ」
その言葉に、カサンドラの目が鋭く光った。
「つまり、王はお前を守るつもりはない。利用するつもりだ」
人々のざわめきが広がる。
紅月国と勇者、そして王国までも。
俺たちは完全に孤立していた。
それでも、世界樹のざわめきは穏やかだった。
「俺は――」
声を張り上げる。
「王のためでも、紅月国のためでも、勇者のためでもない! この畑を、この人々を守る!」
その瞬間、世界樹の根が鳴動し、枝葉が一斉に揺れた。
光の粉が舞い、人々を包み込む。
歓声が上がり、恐怖が少しずつ希望に変わっていく。
だが、遠くで赤い旗と勇者の紋章が翻っていた。
嵐は、確実に近づいている。
つづく。