第11話「勇者と紅月国の密約」
夜の冷気が砦となった畑を包んでいた。
勝利の余韻は確かにあったが、その影には言いようのない不安がまとわりついている。
紅月国は必ず再び攻めてくる。
王国の使者は俺を「正式管理者」と任じたが、それは誉れというより鎖だ。
眠れずに枝葉を見上げていると、夜風に混じって低い声が響いた。
「……リオンの旗が見えた、という報告は本当か?」
声の主はカイルだった。
密使として紅月国に潜り込んでいた男。
彼の目は焚き火に照らされ、鋭く光っていた。
「俺も確かめたわけじゃない。ただ、兵たちが赤い紋章に混じって、勇者の紋を掲げていたと言っていた」
俺が答えると、カイルは深く眉を寄せた。
「……最悪だ。紅月国が勇者を取り込めば、王国は混乱する。民は勇者を信じている。権威の均衡が崩れる」
心臓がひとつ跳ねる。
リオンが――あの俺を追放した勇者が、敵になる?
夜明け前、砦の外に偵察を出した。
戻ってきた傭兵が息を切らして報告する。
「紅月国の陣営に、確かに勇者殿がいた! リオン本人だ!」
人々の間にざわめきが広がる。
村人たちは怯え、傭兵たちは顔を歪める。
勇者は王国にとって光そのものだ。その男が、いまや敵陣に立っている。
俺は拳を握り締めた。
焚き火の夜、追放を告げた冷たい目。
あの視線が、今度は剣となって俺たちを狙うのだ。
その日、紅月国の使者が再び現れた。
ジルベルト――赤い羽飾りをつけた男だ。
前回と同じく誇らしげに顎を上げ、今度はさらに大きな巻物を携えていた。
「紅月国と勇者リオンの名において告げる!」
彼の声が大地に響く。
「世界樹は人類のすべての財産である。ゆえに紅月国と勇者はこれを守護し、その庇護下に置く! アレン・ロウ、お前は勇者の旗の下にひざまずけ!」
村人たちが悲鳴を上げる。
勇者の名が添えられていることで、その言葉は重みを増していた。
だが俺は、すぐに答えなかった。
世界樹の枝がざわめき、光の粉が降り注ぐ。
それが俺に言葉を選ぶ時間を与えてくれているように思えた。
「俺は、誰の庇護も望まない」
静かに口を開いた。
「ここは畑だ。世界樹と人々が生きる場所だ。王国でも紅月国でも、勇者でもない。……俺が守る」
その言葉に、ジルベルトは嘲笑を浮かべる。
「愚か者め。勇者を敵に回す気か? お前など一振りで斬り捨てられるぞ」
兵たちが剣を抜き、ざわめきが広がる。
だが、壁の上に立ったラグが声を張り上げた。
「アレン様の言葉は俺たちの言葉だ! 俺たちはひざまずかない!」
村人や傭兵たちが次々と声を合わせる。
小さな声が、やがて大きなうねりとなって陣営に響いた。
ジルベルトは不機嫌そうに巻物を丸めた。
「よかろう。だが覚えておけ。我らは次に千の兵を率いて来る。そして勇者リオンが先頭に立つだろう」
その言葉を残し、使者は退いた。
緊張が解けると同時に、砦の中に重苦しい空気が満ちる。
勇者が敵になる――その現実が、希望の光を奪おうとしていた。
夜。
焚き火の光の中で、カサンドラが言った。
「アレン、王国はお前を見捨てる可能性がある。勇者が紅月国に与すれば、王は彼を切り捨てられない。そうなれば、世界樹は交渉の道具になる」
「つまり……俺たちが孤立する、ということか」
「ああ」
言葉の重さに喉が乾く。
孤立。つまり、どちらの庇護も受けられず、勇者を含む大軍と戦わなければならない。
そのとき、世界樹がざわめいた。
枝葉が揺れ、光の粉が降り注ぐ。
まるで、「恐れるな」と告げているかのように。
俺は鍬を握りしめ、皆に向かって言った。
「……俺たちは、ここを守る。勇者が敵になろうと、紅月国が迫ろうと、関係ない。畑は俺たちのものだ」
沈黙のあと、ラグが笑った。
「そうだ! 俺たちは農夫で、兵士で、この土地の民だ!」
歓声が上がり、火の粉が夜空に舞った。
だが、胸の奥に刺さる棘は消えなかった。
リオン――。
かつての仲間であり、俺を切り捨てた男。
彼がなぜ紅月国に与したのか。
そして、彼と再び剣を交える日が来るのか。
世界樹の枝を見上げながら、俺は誓った。
「必ず守る。たとえ勇者が敵でも……俺は退かない」
その誓いに応えるように、世界樹がざわめき、夜空に光を散らした。
つづく。