第10話「勝利の余韻と迫る影」
赤鎧隊長率いる兵が退いた後、砦となった畑には静けさが戻った。
だが、それは決して完全な平穏ではない。
煙の匂い、血の跡、折れた武具――戦の痕跡は確かに残っていた。
それでも、人々の表情には希望の色が差していた。
老婆は涙を拭いながら笑い、子どもたちは枝葉の下で「勝ったんだ」と繰り返していた。
傭兵たちも互いの肩を叩き合い、疲れの中に誇らしさをにじませている。
「……守れたんだな」
俺は鍬を握り直し、根に立てかけた。
全身は痣と傷だらけで、腕は鉛のように重い。
だが心は、かつてないほど軽かった。
焚き火を囲む夜。
村人たちが炊き出しを分け合い、簡素な酒で勝利を祝った。
「アレン様に乾杯!」
「世界樹に!」
「畑に!」
笑い声が響き、涙混じりの声もあった。
俺は差し出された椀を受け取り、湧き水で薄めた酒を口に含んだ。
喉を焼く熱さが広がる。
――ああ、生きているんだ。
ふと視線を感じる。
焚き火の影に、カサンドラが立っていた。
「アレン」
彼女の声は低く、いつも通り冷徹だった。
「今日の戦いは勝利と言える。だが、これは小手調べにすぎん」
彼女の目が火の粉を映して鋭く光る。
「紅月国は必ず再び来る。今度は百ではなく、千、二千の兵を連れてな」
「……わかっている」
俺は椀を置き、枝葉を見上げた。
世界樹のざわめきは穏やかだ。
だが、その影には嵐の気配が潜んでいるように思えた。
やがて夜が更け、見張りが交代する。
俺も枝葉の下で横になった。
疲労に意識が沈みかけたとき、不意に囁き声が耳に届く。
「……アレン」
目を開けると、闇の中にカイルの姿があった。
紅月国からの密使。
彼は鎧を脱ぎ、影に紛れるように近づいてきた。
「知らせがある。紅月国は、王国との戦を避けるために策略を練っている。次に狙われるのは……お前だ」
「俺を?」
「そうだ。お前を取り込むために、裏から手を回すだろう。金か、地位か、あるいは……人質を使うかもしれない」
胸がざわついた。
鍬を握る手が汗ばむ。
翌朝。
王国からの使者が現れた。
白地に金の紋章を掲げ、数騎の騎馬を従えている。
「王国よりの伝令である!」
馬上の使者は声を張り上げ、巻物を広げた。
『アレン・ロウを臨時管理人から正式管理者へ任ずる。
世界樹を王国の名の下に守護せよ』
村人たちが歓声を上げる。
「これで安泰だ!」
「王様が守ってくれる!」
だが俺の胸は重かった。
――守護せよ、か。
それはつまり、世界樹を王国のものとして守れ、という意味だ。
伝令の目が俺を射抜く。
「誇れ、アレン・ロウ。お前は国の盾となったのだ」
背後でカサンドラが微かに眉をひそめた。
彼女は知っている。これは称賛であると同時に、鎖でもあることを。
俺は枝葉を見上げ、胸に手を当てた。
世界樹はただざわめき、人々を癒やし続けている。
それは国のためでも、権力のためでもない。
――ただ、生きるために。
「……俺は、この畑を守る」
そう答えた声は静かだったが、確かに届いたはずだ。
しかし、紅月国の動きも止まらない。
夜の見張りが報告をもたらす。
「敵陣に、不審な旗が翻っていた。勇者の紋だ」
鼓動が跳ねた。
勇者リオン――。
彼が紅月国と手を組むなど、あり得るのか。
だが、もしそうなら……。
背後で村人たちが眠る気配を感じながら、俺は鍬を握りしめた。
新たな戦が、すぐそこまで迫っている。
つづく。