第1話「追放と荒野の畑」
俺の名前はアレン。
生まれ持った固有魔法は――【水やり】。
それだけだ。火球も出せないし、石ころひとつ浮かせられない。水の糸を一本、指先から引き、土に落とす。それが俺の全てだった。
勇者リオンのパーティに拾われたのは、一年前。あのときの俺は、足手まといだと知りながら、それでも居場所が与えられた事実が嬉しくて、荷物持ちでも盾代わりでも、とにかく役に立ちたかった。
だが希望は長く続かなかった。
最後の遠征の夜、焚き火の火が落ちかけたころ、リオンがこちらを向いた。
「アレン。お前は明日から来なくていい」
焚き火の残り火がぱちりと弾けて、ひとつの火花が消えた。
「ありがとな。荷運びと、あと……なにをしてたっけ?」
剣士のダグが笑いながら言うと、魔導師のミレイユも肩をすくめた。
「テントのペグに朝露がつかないように、ちょろっと水を流してたわね。ふふ、器用」
聖女エリナだけが眉を寄せた。「リオン、それは――」と言いかけた彼女の言葉は、勇者の視線ひとつで凍る。
「役割のない者を連れていく余裕はない。魔王軍との最終決戦が近いんだ。弱い輪を切るのは、全体のためでもある」
言い方は合理的で、残酷だった。
俺は反論しなかった。できなかった。
だって本当に、俺は戦いでは役に立たなかったから。
「……わかった。世話になった」
荷をまとめるとき、エリナがそっと近づいてきた。
白い指先に、干し果実の小袋。
「食べて。……ごめんね、なにもできなくて」
「気にしないさ。俺も……なにもできなかった」
微笑んだつもりが、頬の筋肉はうまく動かない。
それでも「ありがとう」と言えた自分に、少しだけ救われた。
◇
王都から三日歩いた先に、人が寄りつかない荒地がある。地図で見た名前は「風裂き原」。
乾いた土が縦に裂け、風が笛のように鳴る。草はひざ下までしか伸びず、掘っても掘っても石が出る。住んではいけない場所というより、住む理由がない場所だ。
「……静かに暮らすなら、ここでいい」
誰も俺を見ない。誰も期待しない。
肩に乗っていた透明な重石が、ふっと軽くなる。
まず、地面を掘った。石を拾い、積み上げ、小さな囲いにする。拾った枝で粗末な柵を組み、王都で買っておいた種袋を開ける。中身は麦、根菜、豆。それから、誰も見向きもしなかった、知らない種。名前の札がにじんで読めなくなっていた無名の粒だ。
「お前の名前は……あとでいいか」
土に指を入れる。
俺の【水やり】は、飲み水や湖を作るような壮大な魔法じゃない。掌から透明な糸を引き出し、ひと握りの土を湿らせるくらいのものだ。だが、流量を微妙に変えるのは得意だ。種の上に一滴、隣の穴には二滴。土の色を見て、指先で雨を描く。
夜は冷える。焚き火の炎に手をかざし、硬いパンをかじると、干し果実の甘さが舌に広がった。エリナの小袋だ。
口の中に甘さが残る間だけ、俺は勇者たちのことを思い出す。あいつらは今頃、もっと南の火山地帯にいるだろうか。ミレイユの光る紋章、ダグの剣筋、リオンの背中。どれも強く、美しかった。
俺の掌にあるのは、薄い水の膜だけ。
それでも、土はその水を受け取って、冷たい音を立てる。
◇
三日目の朝、それは起きた。
夜露の残る畑に出て、いつものように土を撫でる。名もない種の穴を確かめた瞬間、小さな緑が指に触れた。
芽だ。
「おお……」
思わず声が漏れる。
どんな芽でも嬉しい。生き物は、出会うだけで少し笑ってしまう。
指先から水の糸を垂らす。芽は小刻みに震え、薄い葉に一滴が吸い込まれた。
その瞬間――大地が、わずかに鳴った。
ざわ……と乾いた土の下を風が走るような、耳の奥で鳴るような音。畑の周囲、ひび割れた土の線に沿って、暗い色が柔らかく解けていく。
芽が、伸びた。
ぐん、とひと息に。
俺は慌てて手を離した。
だが成長は止まらない。芽はひざ丈に、腰まで、肩口までと、目に見える速度で背を伸ばし、幹を太らせ、皮を割って薄銀の小枝を覗かせる。葉は一枚ごとに微かな光を帯び、光は周囲に染み出して、岩の間から草が芽吹いた。
「……なんだ、これ」
乾いた空気が、甘い匂いを帯びる。遠くで鳴いた風の笛が、今は柔らかい笙の音色に変わっている。
一本の若木は、夜明けの太陽に向かって伸び、俺の背丈を越え、二倍、三倍と成長した。
根が地を縫うたび、ひび割れは土に戻り、茶色は褪せ、緑が乗る。
やがて成長は落ち着き、音は静まった。俺は呆然と、若木――いや、もはや若木と呼ぶには大きすぎるそれを見上げた。幹は抱けば両腕が届くかどうか。葉は金の縁取りを持ち、枝先が風に触れるたび、光の粉がぱっと散る。
一本の樹の根元に立つと、胸の奥にひび割れのない水面ができる。
それで気づいた。
これはただの樹じゃない。
「……世界樹?」
その名は、旅の吟遊詩人が歌う伝説の中にしかない。世界のはじまり、生命の泉、王が王である証。どれも作り話、空の上の昔話だと思っていた。
けれど、俺の前に立つこの樹は、まさしくそれだとしか言えなかった。名もない種。水やり。乾いた大地。そして――芽吹き。
俺はふらついて、地面に座り込んだ。
指先はまだ湿っている。
俺は、なにをした?
◇
世界樹が芽吹いてから、風裂き原は速さを上げて変わった。
翌日には鳥が来た。さらに翌日には、湧き水が根元に滲んだ。塩気を含まない、やわらかな水だ。三日目には、麦の芽が揃い、名もない種からは銀色の穂が一本ぴんと伸びた。
そして四日目。
最初の訪問者が現れた。
「ここで……癒える、と聞いたのだが」
旅塵をまとった男が、老婆の手を引いていた。老婆は背を折り、咳を繰り返している。俺が頷くと、男は胸の前で深く頭を下げた。
「半日ほど前に、道で出会った商人が言っていた。『荒野に樹が生え、枝の下に立てば息が楽になる』と。藁にもすがる思いで来た」
「試してみてください。あの枝の陰に入って、深呼吸を」
枝の影は涼しく、光の粉が淡く揺れている。老婆が影に足を入れた瞬間、苦しそうだった呼吸がゆるみ、肩の緊張がほどけた。三度、四度と息を吸うたび、咳が止む。
男は声を失い、やがて膝をついた。
「……神よ」
「いや、神じゃない。樹と、水と、土が……」
言いながら、自分でも信じられない。
俺の【水やり】は、ただの水じゃないのか?
芽吹きのとき、土の色が変わった。枝の下では、体が軽い。世界樹の力だろう。でも、はじまりに一滴を垂らしたのは、俺の指だ。
老婆は立ち上がり、俺の手を握った。骨ばった掌は、温かい。
「ありがとう。あんたは、ここにいておくれ」
ここにいる。
それだけの言葉を、こんなにもありがたく感じる日が来るとは思わなかった。
◇
噂は小さな火が枯れ野を走るように広がった。
五日目、六日目。傷の治りにくかった兵士が来て、枝の下で傷の熱が引いた。妊婦が来て、腰の痛みが薄らいだ。喧嘩腰の傭兵が来て、影に入ると妙に眠たくなり、あくびをして帰っていった。
人が増えるなら、柵も道も必要だ。俺は石を積み直し、世界樹の根元まで緩やかな小道を整え、湧き水の周りに木の枠を組んだ。
やることが、こんなにもある。
そして、やれることも、こんなにもある。
夕暮れ、湧き水に影が落ちた。
背の高い女が、足を止める。
流れる黒髪、肩にかかる緋色の羽織、腰には印章。手には巻かれた文書。使者――それも王都の。
「ここが、噂の樹か」
女は枝を見上げ、次に俺を見た。
視線に濁りはない。評価も嘲りも、期待も。仕事の目だ。
「王国行政院第三使節、カサンドラ・ヴァイス。樹の管理者に謁見したい」
「管理者なんていません。俺は……畑を耕すだけの人間です」
「では畑を耕す人間に、王の書状を渡す」
巻紙が開かれる。
そこに記された文言に、背筋が冷たくなる。
『本件、王国の庇護下に置く』
『世界樹周辺の土地、王有地とする』
『管理・運営については、王国指名の役人に一任』
要するに、ここは王のものになる。俺は畑の男ではなくなる。
「待ってくれ。ここは……俺が見つけ、俺が水をやり、俺が道をつけた場所だ」
「承知している。ゆえに――特例条項」
カサンドラは顎で続きを示す。
『先発管理人として、アレン・ロウを任命』
『権限は臨時。王国監査のもと、期間は三ヶ月』
先発。臨時。三ヶ月。
首輪のついた褒美だ。
強い風が、世界樹の葉を鳴らす。
ざわざわ。笙の音に混じって、遠くから地鳴りが近づいてくる。砂煙が上がった。
荷車。馬。槍の先。旗。
俺は視線を細める。旗に描かれた紋は、見覚えがあった。
勇者パーティの紋章。王国軍直轄、先導旗――
先頭に、金髪の男。
勇者リオンが馬上からこちらを見た。
白い歯が見える。笑っている。俺の名前を、彼はきっと覚えていないだろう。覚えていたとしても、ここでの俺を「役立たず」とは呼ばないだろう。
なぜなら、彼らが来た目的はひとつしかない。
世界樹だ。
権威の象徴。戦略の要。王の冠。
カサンドラが短く息を飲む。「早いな」
俺は、鍬を握り直した。柄は汗で少し湿っている。この柄を握っていた時間の分だけ、俺はここにいることができた。
追放された夜の焚き火の火花よりも、今、胸の中の熱はずっと強い。
「アレン・ロウ。返事は?」
カサンドラの問いは、王の書状を指している。だが俺が応えなければならない場所は、紙の上ではない。
世界樹の根元。湧き水の縁。
ここに集まりはじめた人の目の前だ。
「――俺は、ここで耕す。ここで迎える。ここで守る」
短い言葉だった。
だが樹の葉がひときわ大きく鳴り、光の粉が夕闇にほどけた。
砂煙の向こうで、リオンが手綱を引く。
視線が、火花のように俺をかすめた。
次の瞬間、馬蹄の音が加速し、軍列は旗を高く掲げてこちらへ雪崩れ込む――
世界樹の根元で、風が逆巻いた。
湧き水の面が揺れ、光の粉が渦を巻く。俺は直感で、掌を水に触れさせる。指先から【水やり】の糸が落ち、渦にほどける。
水に、なにかが混ざった。
温度でも、色でもない。
もっと根っこのほう。芽吹きのときに感じた、土の奥の響きだ。
風が止み、砂煙がぱたりと落ちる。
軍列の馬が、一斉に足を止めた。
彼らは気づいていない。けれど俺にはわかる。世界樹の根が、この場所を「畑」にした。踏み荒らすための地面ではなく、育てるための土に。
鍬の柄に残った汗が乾く。
俺は、勇者の旗を見据えた。
追放は終わった。
ここからが、俺の物語だ。
――つづく――