4.影穢
黒い煙のような影は、いくつかの場所を目指して複数の腕を伸ばしてくる。これは影穢を分散させて、たとえ祓いが失敗しても被害を最小限に抑えるために、呼び込む術をあちこちに設置するからだ。
黒くうねる影が下りる先には影穢祓いが待ち受けている。
空を見ていれば、雷さんが待ち受けるジャングルジムに降りてくるものの他に、丘の上、已桐の屋敷の方へ降りる塊も確認できる。
慣れているとはいえ、已桐のサポートをする両親のことはいつも心配だ。
少し丘の上に向かう影を目で追っているうちに、雷さんが影穢へと向かって飛び上がった。はっとして視線を戻せば、抜いた刃が光の尾を引いて真直ぐに影穢を切り裂いていく。人が飛び上がれる高さを優に超えて、十階建てのビルくらいの高さまで到達した雷さんは、手の中で刀を持ちかえて空を蹴る。今度は斜めに落ちながら、その速度も利用して太さのある影穢を切断した。
夜空や影をバックに、ほのかに光る刃の軌跡がさながら雷のようで、屋号はこれかと納得する。
鮮やかな手並みは、見えないと言っていたのが嘘のようだ。心の中で拍手して、切り離された影の先端から風に乱され散っていくのをにこにこと眺めた。
色を薄め、乱されつつも影はジャングルジムに落ちてくる。
雷さんもあの高さから降りてくるのだけれど、大丈夫なのかと目線をやれば、すでに納刀していて着地地点を見定めていた。そのままならばジャングルジムの向こう側に降りることになりそうだ。
ほっとしたのも束の間、雷さんの背後から空の切れ目に身を戻そうとする影穢の一部が、未練たらしく細い糸のような腕を伸ばしてきた。雷さんは全く気付く様子がない。見えないのもそうだろうけれど、まだ空の切れ目に戻りきっていない影穢本体の気配に紛れて、糸のようなそれに気付けないのだろう。
「雷さん! 上!!」
声を掛けると同時に弓を構える。
雷さんもハッと振り返ったけれど、その顔には困惑が色濃いようだ。柄に手はかかっているけれど、抜こうとはしない。
雷さんに向かうかと思った糸は、予想に反して彼の横からまだ下へ向かう。一瞬、私が狙いかとも思ってもう少し引き付けようとしたのだけれど、それは色を薄くする斬られた方の影の根元でくるりと先端を曲げた。
思わず弓を下げる。
何が、と目を凝らせば、影の中から薄汚れたドッチボール大の毛玉が引き出された。影に染まりつつあるものの、まだ白かったであろう毛が見て取れる。
毛玉を巻き取って、細い糸はシュルシュルと引き上げ始めた。
「雷さん! 斬って!」
彼の横をすり抜ける位置だが、見えていない彼には何のことだかわからないらしい。今から弓を構え直してもあの細い糸に狙いを定めるのは――
ほんの勘でしかなかった。あの塊を取り込ませてはいけない、と。
だから後先を考えずに動いてしまった。
身体を離れ、雷さんの肩に乗る。魂を触れ合わせ、彼に視覚情報を共有させれば、声に出すより早く意図が伝わった。
指先が鍔を押し出す。落下中だというのに、彼は器用に体の向きを変えて淡く光の残る一閃を繰り出した。
空の隙間から、忌々しそうな視線の直撃を受ける。
引いていく細い糸の行く先を眺めて、後悔はしていないけれどちょっと面倒なことになるなと自覚もした。
雷さんが地面に降り立つ前に、自分の身体へと戻る。地面に横たわっていた身体は、幸い手に擦り傷を作ったくらいでひどく痛むところもなかった。
身を起こしたものの、抜け出した魂はまだ上手く固定されていない。立ち上がるのは無理で、座り込んでいるところに落ちてきた毛玉が二、三度弾んで転がってきた。
私の前に着くまでにドッチボール大だった大きさはするすると縮まり、片手に乗るくらいの大きさになってしまう。所々に灰色の残る毛玉はふるふると震えていた。
「……おい……!」
両手で優しく毛玉を掬い上げた時、雷さんの声が降ってきた。怒りと困惑と……羞恥、だろうか。私は笑って視線を上げる。
「勝手に魂を乗せんな!!」
「だって、間に合わなかったんだもの」
少し前屈みで、頬に朱を乗せた大の大人は思ったよりも可愛らしいなとさらに口許が緩む。
「気持ちよかったですか? 相性は良さそうですね」
「ん……なっ……!」
相性が悪ければ、そもそも情報の受け渡しは難しい。あの反応速度は私にも嬉しい誤算だった。と、同時に相性の良い魂同士の触れ合いは身体的な快感ももたらすことがある。慣れればコントロールできるものなので、雷さんはそっちの経験はなかったのかもしれない。
「名を預けていなければ、上手く雷さんのところへ跳べなかったです。想定していたわけじゃないけど、よかった」
手の中の毛玉をそっと撫でれば、雷さんは文句を飲み込んで先に疑問を口にした。
「……なんだソレ。魍魎……じゃ、ないのか?」
「危なく魍魎にされかけてました。キツネかオオカミか……どこかで祀られていたものだと思いますけど、だいぶ力を吸い取られて弱ってますね。完全に取り込まれていたら、ちょっと厄介なモノになるところでした」
ギシ、とジャングルジムから軋む音がして、綺麗な箱型が積まれた形がわずかに歪む。だいぶ散らされた影穢だったけれど、落ちてきたそれにさらされたジャングルジムはいたるところで腐食が見られた。
おとなしい霊も付喪神のようなものも、影穢に浸食されれば悪影響を巻き散らす。神格に近いものでも、弱っていれば意識を乗っ取られ、厄介な存在になりかねない。
「……俺が見えてるのは……さっきの影響なのか?」
少し警戒して雷さんは辺りを見渡した。
「多少残っているかもですが、たぶん、弱りすぎて普通の動物に近い状態になっているのだと。まだ影穢は引っ込み切ってないですけど、見えますか?」
空を見上げて、雷さんは首を振った。
「見えねぇな」
雲のように広がった影は線に戻りつつある。今回の影穢祓いはこれで終わりだ。
帰らなければ、と立ち上がってみたものの、ぶかぶかのぬいぐるみを着ているような感覚に足がふらつく。
「おっと……」
気づいた雷さんが支えてくれた。
「あんたさぁ、祓具師の娘ってやっぱ嘘だろ。弓はまあ、扱えても不思議じゃないが、ほいほいと魂抜け出来る祓具師なんていねーよ」
「嘘じゃないですよ。でも、そうですね。この子を連れて帰ると、雷さんには少し面倒をかけるかもですね」
「はぁ?」
思いきり顔を顰められたので、笑ってしまう。
「せめて今夜はゆっくり寝られるようにしますから、両親が帰ってくる前に家まで送っていただけますか?」
渋々と彼は頷いて、私の弓を拾う。このタイミングで預けた名も返してもらった。
うまいこと両親とは鉢合わせずに済んだ私たちは、次の日、已桐のお屋敷で再び顔を合わせることになる。




