2.已桐と月影
「女子高生の名を預けたんだもの、嬉しいでしょう? おじさんのもちょうだいとは言わないから、呼び名を教えて?」
「勝手に押し付けんなってんだ! 一時的とはいえ、危ないって認識がないのかよ。おとなしそうな顔してとんでもねぇ跳ねっかえりじゃねぇか」
「あら。でも夫婦の間では仕事の時は常に預ける人もいると聞きますけど?」
「俺らは他人だろ」
名を預けるということは、魂を預けるのに等しい。預かる人が傷つけば、預けている人物も何かしらのダメージを負う。責任感の強い人間ほど、無茶が出来なくなる仕組みだ。
「おじさんは他人の命を軽んじる方ではないですよね?」
忌々しそうな舌打ちをして、おじさんは月へと視線を移した。
「屋号は『雷』。影穢祓い専門の斬師だ」
「専門? 憑祓いはしないの?」
「視えねぇからな」
どこか拗ねた響きがあって、おじさんは思い出したように手の中の酒を口にする。
「見えないのに影穢祓いはできるの?」
「そのための結界でもあるんだよ。道を一本にすりゃあ、近づいた気配を斬るだけでいい。だから弱められると困るんだ」
リボン結びを忌々しそうに見下ろして、おじさんはため息をつきながら手を振った。
「言ってもしょうがねぇ。帰れ帰れ」
「応急処置は終わってますから」
「は?」
「代わりのやつは学校終わってから届けにきますね」
確かにそろそろコンビニに寄ったと誤魔化せる時間は過ぎている。私は素直にその場を後にした。
*
已桐家の起こりは遠く陰陽師の家系だという。都に跋扈する魑魅魍魎を滅する華々しい人たちとは別に、その発生源の研究を重ねた一族がいたようだ。
彼らは研究の末……はたまたその執念から縁が結ばれただけなのか、新月の晩に空の隙間から影のようなものが地に下りてくるのを視るようになる。規模の大小はあれど、それが降り立つ場所には病や憑き物が多く出た。
湧き出る影を全て滅することは出来なかったけれど、御神刀で切り払えば諦めたように引いていく。切られた影は薄く広がって、微小な影響しか及ぼさなくなった。
月に一度の祓いは現代まで続いていて、それを取り仕切る已桐家の現当主が已桐解という。全体的に色素が薄く、口元に黒子のある三十歳の若きイケメンだ。
月影は已桐と共に影穢を祓う研究を続け、その道具(刀や札など)を造り提供してきた一族。両家の仲は切っても切れない関係である。過去には婚姻を結んだこともあったようだが、その二人に恋愛的な思慕があったのかどうかは定かではない。
お風呂のお湯を手で掬って、零れ落ちていく水の流れをぼんやりと眺める。
いっそ、政略結婚の駒にしてくれればいいのに。
「結ちゃん? 起きてる?」
母の心配そうな声が私を呼ぶ。
なんてぬるま湯な生活。
私は一度目を閉じて、それからいかにも眠そうに返事をした。
「もう上がるー」
胸まであるストレートの黒髪。色白の肌。少しきつい目元もあってか、和風美人と形容されることもある。
私はそれを生かしきれているだろうか?
影穢の存在を知らぬ友人たち。先生。現代では幽霊も肩身が狭いらしい。いわんや、魑魅魍魎など。
平穏な生活に入り込む余地もない。
しかし私には見えてしまう。毎月下りてくる影穢が小さくも弱くもないことが。
幼い頃に父が言っていたことが、今でも耳に残っている。
『結、影穢は人々の淀んだ思いが集まったもの。決してなくなることはないんだよ』
異質なものを見なくなった人々は、それを祓う力も失った。
祓い人の数は年々減っていると聞く。それは大丈夫なんだろうか。
已桐の当主は「大丈夫なようにするよ」と言うけれど。
きちんと畳まれた着替えに感謝して袖を通す。
養われているうちは大きく動けない。だから、私は明日の準備をしておとなしくベッドに横になる。
明日も学校に行き、夜には塾に行き、県外の大学に行くための勉強をする。
目を瞑ると、ツナギ姿のおじさんが瞼の裏に浮かんできた。
『視えない』と言った彼は小さな希望だ、と、私はにんまり口角を上げる。
私には野望がある。
祓い人になるか……祓い人の傍で影穢祓いや憑祓いのサポートをする人になるのだ。
さて、私には越えなければならない壁がいくつかある。
ひとつ、学業。
おろそかにして勝手ができるわけもない。「~もできないくせに」などと言わせるわけにはいかないだろう。先生や友人たちにも味方でいてもらわなければいけない。
ひとつ。年齢。
未成年というだけで制約は多い。だからといって準備は怠りたくもない。県外の大学に進学し、一人暮らしというフィールドを手に入れるのももう少し。
ひとつ。両親。
優しく真面目な人たち。哀しませたくないという心理的壁は高い。
ひとつ。已桐本家。
影穢祓いのエキスパートであり、絶対的ルール。言わずもがな最難関だ。
当主がNOと言えばNO!私はこの壁を打ち破らねばならない。
気合を入れて髪を一つに括り、弓を引く。引退した部活の後輩たちにアドバイスを与えつつ、その感覚を忘れないために。
剣道は止められた。刀は持たせてもらえない。弓も渋られたが、自衛手段は必要だと押し通した。
「あれ。先輩、もう帰っちゃうんですか?」
「うん。ちょっと用事が入っちゃって。また来るね」
「はい! 勉強の息抜きにいつでも来てください!」
「ありがとう」とにこやかに手を振る。部活での私は『本番に弱い人』だ。
練習でどれだけ的中を重ねても、大会では準優勝以上を取れない。それは偏に已桐を欺くためだ。出来すぎれば取り上げられる。
今まで我慢を重ねて準備してきたことがようやく蕾を付けた気がして、私は意気揚々と自宅近くの児童公園に向かった。




