1.影穢祓い
気持ちのいい夜だった。
涼しい風が頬を撫でて、コロコロいう虫の声が秋を歌っている。高台にある我が家まではもう少し。来た道を振り返れば、街の明かりがキラキラと手を振っているようだ。
空には細い月。
空の壁紙を猫が引っ掻いたような、つつけばポキリと折れてしまいそうな……細い細い月。
私は前に向き直って丘の上を見上げた。
木々に囲まれて、瓦屋根の一部がシルエットで見えている。そこには大きなお屋敷があるのだ。
止めていた足を動かして横道に入る。
丘の中腹の造成地に建つマンションの一室が我が家だ。駅前の塾から歩いて十五分程度。上のお屋敷までなら迎えもあるのだろうけど、そのくらいならいい散歩になる。
児童公園を過ぎれば夜の散歩は終わる……のだが。
ふと違和感を覚えて数歩戻った。
街灯の明かりの奥にジャングルジムがあるのだけれど、いつもと違う気がして。
手前が明るい分、その奥は闇が深い。目を凝らすようにして見れば、黄色いテープが周囲を囲っているようだ。
ああ、立ち入り禁止の。
そう思い至って、それから少し寂しくなる。小さい頃はよくこの公園で遊んだから。
老朽化などメンテナンスの関係もあって、撤去される遊具も多いと聞く。この公園もそうなんだな、と、気づけば公園に入り込んでいた。
ブランコに鉄棒、片隅にベンチ。花壇からは虫の合唱が一際大きく聞こえてくる。ジャングルジムの傍まで行って黄色のテープに指を這わせ、何気なく見上げたその天辺に誰かが座っていた。
どきりとして動きを止める。
気配に気づいたのか、その人物もこちらを見た。確かに目が合って、あちらも動きを止める。
手にはコップのようなものを持っていて、作業用のツナギ……工場とか工事現場にいそうな感じのおじさん? 暗がりで見る分にはそう見えた。
その人はぽりぽりと頬など掻いて、それからちょっと面倒そうに口を開く。
「あー……もしかして、見えてる?」
どういう意味だろう? 明かりが当たらないから見えないだろうと思ったのか。
そっと一歩足を引いて、その場を離れようと体の準備を整える。相手が動く気配はないけれど、見知った近所の住人でないことは確かなので、誰か大人に報告した方がよさそうだ。
「んあっ! 待て! 待て! ちょっと月見をしてただけなんだよ! 人払いしてたのに見えるってことは、お嬢ちゃん、関係者じゃないのか?」
関係者、と言ってツナギのおじさんは丘の上の方を指差した。
その一言で、私はもう一度彼を観察し直す。
彼の腰かけているすぐ脇には、袋に入った長い棒状のものが置いてあった。
空を見上げれば細い月。月見をするような立派なものではないけれど、明日か明後日には新月がやってくるのが判る。
「……已桐屋敷の依頼、なの?」
「そう! 仕事! 二、三日だから大ごとにしないでくれよ~」
ほっとした顔をして、おじさんは拝むような仕草をする。
私は少し考えた。これは使えるのでは?
引いていた足を戻して、ジャングルジムに手をかける。
「……ねぇ、じゃあ、誰にも言わないから、その代わり見学させてくれない?」
「見学ぅ?」
「一度ちゃんと見てみたかったんです。『影穢祓い』。それ刀でしょ?」
指差された長物に視線を落としてから、おじさんは渋い顔をした。
「お屋敷で許可されてないなら、ダメだろ。一般人巻き込んだなんていったら俺の首が飛ぶ」
「えー」
「えー、じゃない。お子様はねんねの時間だろ」
手入れしてるのかしてないのかわからない、ぼさっとした長めの髪をぐしゃりとかき上げて、おじさんは意外とまともなことを言う。
「でも、冬には十八になるもの。選挙に行ける歳よ」
「受験生じゃねーか。勉強しろ勉強!」
「おじさんはしたの? 勉強」
「おじ……まぁ、それなりにな!」
あ。目を逸らした。
「……私はちゃんとしてるもの。塾にも通ってるし」
「なら、そのまま普通に生きろ。危ないことに首を突っ込むな」
そう言われても、せっかくのチャンスをみすみす逃したくはない。
ひとつ息を吐いてスマホを取り出し、耳に当てる。
「……夜中の公園に刃物を持った不審者がいて、お酒を飲みながら話しかけてきたんですぅ」
おじさんはコントみたいに口に含んだものを噴き出した。
『110』と表示した画面を彼に向けて、にっこり笑う。
「発信してもいいですか?」
「仕事の邪魔しようってのか? いいぜ。やれよ。常人には認知されない仕様だからな。いたずらだと叱られんのはそっちだぞ」
ふむ。そういえば、最初に『見えてるか』と訊かれたっけ。
私は黄色のテープをつまんで持ち上げた。
「結界用の小道具かぁ」
よし、と、鞄から携帯用のはさみを取り出す。
「そう簡単に切れねぇよ」
ふふん、と鼻で笑ったおじさんは、次の瞬間顔をひきつらせた。
「……なっ……ちょっ……!」
確かに少し切りづらかったけれど、テープは無事に左右に分かれた。
「何してくれてんだ?! つか、あんた何者だよ?」
「両親が祓具職人なの。この手のアイテムの取り扱いはお手のもの。見学させてくれるなら、ちゃんと直してあげる」
両手に左右の端を持って、にこりと笑えば、おじさんはしばし呆然と私を見下ろしていた。
「……張り直すからいいよ。帰れ」
「強情だなぁ」
「どっちが……!」
私は手にしたテープを蝶結びにする。
「帰ったら通報しますよ。本番まで持ち場を離れて職質受けるのは、まずいんじゃないですか? 中に入れろとは言いませんし、おとなしく見るだけにしますから」
ストレートの長い黒髪を軽く払って優等生の笑顔で小首を傾げる。
ぐぬぬと一唸りしたおじさんは、それでもまだ許可をくれなかった。私はお屋敷の方を振り返って、小さく息をつく。
(人選は間違わないんだよねぇ)
仕方ないかと私は態度を改めて、その場に正座した。
「祓具師「月影」の娘「結」と申します。祓が終わるまであなた様に名を預け、破損させた祓具は弁償いたします由に、どうかお聞き入れ願いたく」
両手をついて頭を下げれば、おじさんが声にならない様子で身を捩っているのが伝わってきた。
「ああ! もう! くそっ! 断っても勝手に来るつもりだな? いいか? マジで見るだけだぞ? 当日は俺の指示に従え。文句は言うな? 守れなきゃ蹴りだすからな!」
準備は粗方終わっているはずで、今から場所を移すのは色々な意味でリスクが高い。名を渡すことはこちらにもリスクがあるので本気度は伝わったはず。
顔を上げにっこりと笑った私に、おじさんはひどく渋い顔をしてみせた。