逆らってはいけない人
しかし妙だ、この部屋の様子から察するに今おれは牢屋にいる。となると自分の身分は何だ…?囚人か奴隷か、それとも革命を起こされ捕縛された王族とか?考えても整理がつかない何か情報があれば……。
するとコツコツとブーツのような固い靴で石の床を歩く音が聞こえてきた。
その音は俺の牢屋の前でぴたりと鳴り止み、
「おはよう。夕食、ここに置いておくよ。」
それはメイド服を着たどこか気品のようなものがうかがえる、短く白髪を整えた老婆だった。老婆は牢の扉を開け二つのサンドイッチが乗ったトレイを机に置く。
そしてまじまじと見ている俺を不審がったのか「どうかしたかい?いつもと様子が違うけれど。」と尋ねてきた。
「あなたは?」
俺がそう問うと老婆は衝撃を受けたように目を見開く。
「ハル坊…あんた…。」
ハル坊、俺のことか?しかしこの反応はなんだ。この老婆は俺の何に驚いている?
「ああ、ごめんね。せっかく声を聴かせてくれたんだゆっくりでいいさ。待ってな、今紅茶を淹れるからね。」
俺が出方を伺うように睨むとその老婆は優しく微笑み、配膳車に置かれた湯気の立ったティーポットに手を伸ばす。
「それにしてもさっきの質問はどういう意味だい?私のこと、忘れちまったってのかい。」
子供の冗談を揶揄うように語りかけてくる。
しかし俺はまだどう返答するべきか迷っていた。
もし、この老婆が俺を監禁した犯人だとしたらここで事情を明かすとさらに事態が悪化しかねない。だけどこのまま無言を貫いてもきっと状況は変わらない。
よし、ここは先例に倣うとしよう。転生ものでよくある第一村人とのファーストタッチの際の便利な手段……そう、記憶喪失ロールプレイってやつだ。
「実は起きたらここにいて、なにも覚えていないんだ。」
お手上げとジェスチャーをしてみる。
「全て……覚えていないのかい?自分の名前もここのことも。」
それまでテキパキとお茶を淹れていた老婆はその手を止め驚いたように目を見開いた。
「ああ、一切ね。」
「記憶喪失ってやつかい…。だからなのかね。」
老婆はどこか口惜しそうな表情を浮かべると、止めていた手を再度動かした。
しばらくして老婆は紅茶を入れたティーポットを俺に渡し、俺のサンドイッチをひょいとつまんで口に運んだ。
「それで、何か聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「さすが、お婆さまは違うね。話が早くて助かるよ。」
持ち上げられたサンドイッチを目で追う俺。
「黙んな。三日連続脂ものを食べても平気なほど若いんだ。まだまだお姉さんだよ、私は。」
老婆は得意げにサンドイッチをくるくると手首で回す。
「だから肌に艶がねえのか。その摂取した油を肌に塗れ────ばぁっ!?」
サンドイッチを足られた腹いせに軽く揶揄うが、それ以上先は言わせまいとプロ野球選手顔負けの投球で、食いかけのサンドイッチで俺の口を塞ぐ。
婆さんのくせに心得ていやがる。
「随分と生意気な男になったねハル坊は。ついてる金玉とっちまおうか?」
仁王立ちで睨むその姿はまるで鬼のよう。
俺は両手をあげて必死に首を振る。それはもう、取れるかと思うほど。「この婆さんに逆らうのはまずい」今の俺に分かるのはそれくらいだった。