プロローグ
育児に興味のない父、自らが果たせなかった無念を俺に晴らさせようと教育という名の虐待を敢行する母。そんなありがちな家庭に生まれたとか、特異な体に恵まれスポーツも勉学もなんでもこなせて人生やりたいことが尽きない────とかそんな人生だったらどんなに楽しいことか。
俺、秋戸真祐には10歳以前の記憶がない。17になった今も記憶が戻る事はなく過去の話を持ち込まれ困ることが多々ある。
朝起きてリビングで寝そべる母に「誰あんた?」と言ったときは驚かれた。病院に連れて行かれ記憶喪失だと分かるや否や、日夜自分周りのことを叩き込まれたものだ。今では幸い、友人にも恵まれ高校にも問題なく通えている。
「シンちゃん!!シンちゃん!!」
何者かが俺の机を強く叩く。昼飯も食い終わり次の授業開始まで寝るつもりでいたのに目が覚めてしまった。
ちなみにシンちゃんというのは俺の愛称みたいなもんで数少ない友人からそんなふうに呼ばれている。某キャラクターとモロ被りしているのは言うまでもないが、やめろと言っても呼び続けてくるので放っておくことにした。正直、テレ朝に正面から喧嘩を売る行為は勘弁してほしい。
「あんだよ寝てたってのに。」
あくび交じりに体を伸ばす。
「記憶喪失とかけまして真祐の財布の中身と解きます。」
「その心は。」
「どちらも中身がないでしょう。」
そいつはどこかで見たような制服の襟をただす動作で俺を煽る。
「残念だったな先日小遣いが入ったばかりだ。」
俺がにやけ顔で財布の札を見せつけると、おかしなことにそいつはにこっと口角を上げる。
「よし、遊びに行けるな。」
こいつ、吊りやがった。
「汚ねえぞ!?」
「うるせえ!恨むなら最近付き合い悪い自分を恨むんだな!」
勝ち誇った顔で腕を組むこいつは多田 実。短髪で身長が高く、よく言うと優しい顔、悪く言えばとんでもなくあほみたいな面をしている。実際、勉強はからっきしだが運動能力に秀でており友人も多くいる。幼馴染でなければ俺には縁のないような相手だ。
「あんたら…体育終わりなのになんでそんな元気なのよ。」
茶髪のボブヘアを揺らしながらあきれ顔で寄ってくるこの女は君根 栞奈。俺と実が喧嘩をしていると、決まって仲裁に入ったり、あげく毎日俺ら分の弁当を作ってくるほどの世話焼きなもんで”保護者”なんてあだ名をつけられるしまつだ。こいつが保護者なら俺らがまるで子供みたいじゃないか、不服である。
「栞奈も参加するか?俺たちの玉の転がし合いに。」
「ただのボーリングでしょ変な言い方しないで。」
「おい実。こいつも最近付き合い悪いぞ、さっきのやってやれ。」
俺の指示に実は「よし来た。」と先ほどのなぞかけを慣行する。
「記憶喪失とかけまして栞奈の財布の中身と解きます。」
「えーっと、その心は?」
困りながらもなぞかけに乗っかる栞奈。
「どちらも中身がないでしょう。」
例のごとく襟を正す実。
「よく分かったわね、ほんとに空っぽよ。」
栞奈は茶色の皮の長財布をパッパッと下向きに振り「ほら。」と澄ました顔で見せつけてくる。
「この場合はあんたたちのおごりってことでいいのよね?」
ラッキーと続ける栞奈に俺と実の時間が凍る。
「今日はなしにすっか。」
「そうだな、それがいい。」
沈黙を破ったのは実。ここぞとばかりに俺も続く。
「なんでお金ある場合しか想定してないのよ……。」
栞奈が呆れたように頭を抱えた。
学校からそそくさと帰宅するとすぐに制服をひょいひょいとその辺に放り、肌着を晒してベッドに身を投じる。夕暮れの日差しが暖かく真佑の身を包む。
暖かい…。これだから昼寝はやめられない、今日は体育の疲れもあってすぐ寝てしまいそうだ—————。
寒い、今何時だ?いつもであれば親が夕食時なると起こしにきてくれるはずだがそれがない。早く起きてしまったかな。
二度寝を試みるがどうも寝づらい。マットレスは体を包み込むどころか木の板のような固い質感で動くたび全身をゴリゴリと摩擦し、毛布もごわごわとしていてまるで麻袋を着ているようだ。
そんなもんだから眠れないので仕方なく上体を起こす。起きたばかりでまだ虚な目をこすって辺りを見回した。
五畳ほどある部屋の左最奥に位置するマットレスに長座位で座る俺の眼前には、錆びれた鉄格子。右には上部が半径15cmほどの円型に切り取られた木箱がありその穴の黒々しさと言ったら表現しようがない。おそらくは便所なんだろうが確認するのにはかなり勇気がいる。『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗く』というがこれでブツが覗いていやがったらたまったもんじゃない。そしてその便所の前、俺から見て斜め右の位置に小ぶりの机を挟んで二つ椅子が配置されている。
この様子から見るに────ここは牢屋?
「うん。まだ寝ぼけてるみたいだ。まったく可愛い奴だな俺も。」
そんな冗談を言いつつ頬をつねる────が、いつまで経っても夢は覚めない。
……どうやら悠長にしている場合ではないらしい。
ありえない事態に思考を巡らせているとぐーっと腹の虫が鳴った。
こんな状態でも腹は空くのだから人の体とはめでたいものだ。
そんなことを思いながら腹を撫でる。すると奇妙な感覚が手のひらに伝わった。
「俺の腹…こんな感触だったか?」
脂肪がない…。俺は特に太ってもおらず痩せ型な方だがそんな次元じゃない。腹の皮が内側に反り返りへこんでいるのだ。
不思議に思い目を落とすとあばら骨が浮き果物の搾りカスのように細い腰、血管と骨が浮き出て今にも折れてしまいそうなか細い腕。そしてその両腕には一輪ずつ花の入れ墨。まさかと思い自分の顔をなぞる、こけた頬の感触が手のひらをつたった。
……間違いない。というかこれしか考えられない。
頭に一つの単語が浮かぶ。
────異世界転生。